高島忠夫の長男(道夫)誘拐殺人事件の犯人の名前や動機、現在とは?

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イエーイの名セリフでお馴染みの俳優の高島忠夫さんが2019年6月26日午後1時1分、老衰のため88歳で亡くなりました。

高島忠夫さんの嫁は元宝塚の男役トップスターの寿美花代さん(87歳)。2人は1961年の共演をきっかけに交際を始め、1963年に結婚しました。

2人の息子として知られているのが、俳優の高嶋政宏さん(53歳)と高嶋政伸さん(52歳)ですが、高島家は実は3人兄弟で、政宏さんと政伸さんの上には長男の道夫さんがいました。

長男の道夫さんは1964年3月生まれで、生きていれば現在、55歳ですが、生後5か月の時に家政婦に殺害されたのでした。

ここでは、高島忠夫さんの長男の道夫ちゃんの誘拐殺人事件の詳細と犯人の名前や動機、現在についてまとめています。

高島忠夫の長男誘拐殺人事件とは?

高島忠夫(本名・高嶋忠夫)さんは、1930年7月27日生まれで、1951年の21歳の時に映画会社「新東宝」のニューフェイスとして芸能界入りし、翌1952年に映画デビューして以降、1950年代から60年代にかけて、100本以上の映画に出演する人気俳優となりました。

一方の寿美花代(本名・高嶋節子)さんは、1930年2月6日生まれで、1948年の18歳の時に宝塚歌劇団に入団し(35期生)、星組の男役トップスターとなります。

2人の出会いは、1961年、寿美花代さんが司会を務めるテレビ番組「季節のミュージカル」に高島忠夫さんがゲスト出演したことで、2人は2年間の交際を経て、1963年に結婚します。

結婚をきっかけに寿美花代さんは宝塚を退団しましたが、女優業は続けていました。

翌年1964年3月には、待望の第一子となる長男の道夫ちゃんが誕生します。ところが、同年8月、道夫ちゃんは生後5か月の若さで、家政婦によって殺害される事件が起こります。

1964年8月24日午前2時すぎ、東京・世田谷区上野毛の高島忠夫さん宅で、看護婦といっしょに1階で寝ていたはずの長男の道夫ちゃんがいないことに家政婦の1人が発見し、2階で寝ていた高島夫妻に知らせるとともに110番通報しました。

当時、高島家には、2人の家政婦、家政婦A(17歳)と家政婦B(69歳)、そして看護婦のK(29歳)の3人が住み込みで働いていました。

部屋は荒らされており、最初に気づいた家政婦A子は「変な物音を聞いた」「窓の外で不審な男が歩いているのを見た」「道夫ちゃんの泣き声を聞いた」など強盗ではないかと疑っていました。

全員で部屋の中や外も探し回りますが、道夫ちゃんは見つかりません。家に戻った寿美花代さんは、もしかしてと、最後に風呂場で浴槽の蓋を開けたところ、中に沈められ変わり果てた道夫ちゃんを発見します。

道夫ちゃんは誘拐されておらず、自宅の浴槽の中で殺されていたのでした。

直ちに道夫ちゃんを病院に連れていきましたが、夜中の2時すぎで、受け入れてくれるところはなく、やっと見てもらえた小倉医院に辿りついた時には、心肺停止状態で、人口呼吸などが試みられたものの助けることは出来ませんでした。

高島忠夫長男殺人事件の犯人は誰?

通報を受けた警察は殺人事件として捜査を開始しますが、犯人としてすぐに17歳の家政婦Aを疑うようになります。

というのも、家政婦Aの証言は矛盾だらけだったからです。

例えば、その夜、家政婦A以外に不審者を見た者はおらず、道夫ちゃんの泣き声を聞いた者も家政婦A以外にはいませんでした。

さらには、その夜、高島家に外から侵入した形跡はなく、番犬もいましたが、犬は吠えていません。

発見場所となった風呂場のお湯は、全員が入った後に、家政婦Aが抜くことになっていましたが、この日は湯が捨てられていませんでした。もし浴槽で殺害したとしても犯人が逃げる前に蓋をきちんと閉めていくのはおかしい。

強盗目的で侵入した部屋で道夫ちゃんに姿を見られたとしても、生後5か月の赤ちゃんに泥棒のことが分かるはずもなく、殺す必要性がない、など、不自然な点だらけで、警察が家政婦Aを問い詰めたところ、その日の昼の午後1時半頃に自供に至ったのでした。

犯人の名前や犯行動機とは?

犯人である家政婦Aは17歳と未成年のため、名前は公表されませんでした。

そして、道夫ちゃんを殺害した犯行動機は、「看護婦Kへの嫉妬と、高島夫妻に愛されたいがため」というものでした。

17歳の少女に殺意を起こさせた経緯とはどいういうものだったのでしょうか。

家政婦Aは1947年、新潟県佐渡島で、農家の4人姉妹の末っ子として生まれました。1963年4月、中学卒業と同時に上京し、都内の工場で女工として働き始めますが、知り合いから高島家で家政婦を探していると知り、7月、ツテなども利用して、宝塚時代からファンだった寿美さんのいる高島家の家政婦として採用されることになりました。当時、高島家の家政婦はA1人だけでした。

憧れの高島夫妻宅での生活が始まりました。

家政婦として家事を担っていたAは、寿美さんが妊娠したことにより、家事だけでなく、高島忠夫さんの身の回りの世話もするようになり、高島家のことを取り仕切る存在となっていきました。

1964年3月に長男の道夫ちゃんが生まれた後、寿美さんは女優を続けていたため、道夫ちゃんの寝かしつけなどを始め、家政婦Aは道夫ちゃんの世話を見ていました。

そんな中、同年6月、信頼を得た家政婦Aは、芸術座の公演に出演する高島忠夫さんの付き人を任されます。

付き人として忠夫さんと一緒に毎日、芸術座にでかけるようになった彼女の献身的な働きに感謝した忠夫さんは、2ヶ月の公演後、高級レストランに連れていったり、高価なブランド品をプレゼントしてくれたりと、とても可愛がってくれたのでした。

ところが、付き人となっていた2ヶ月の間に、高島家では変化がありました。

家政婦Aが付き人として家にいないことが多くなったため、家事の手伝いとして遠縁の69歳の家政婦Bが雇われ、高島家のことを取り仕切るようになりました。

そして、3月に誕生した長男の道夫ちゃん専属として、看護婦K(29歳)も住み込みで働くようになっていました。

道夫ちゃんの専属となったKは、看護婦の資格を持ち、大学病院での勤務経験があり、給与は家政婦Aの3倍、高島夫妻からの信頼も厚く、家政婦Aは看護婦Kが自分よりも高島夫妻に可愛がられているのではとの嫉妬や、自分の居場所が無くなるのではとの不安に駆られるようになっていきました。

芸術座の公演が終わった後、高島夫妻は8月28日から1か月のバケーションで海外旅行に出かける予定でした。

付き人となった家政婦Aは、一緒に旅行に行けるのではと期待しましたが、同行の誘いはありませんでした。誘いが無かっただけでなく、高島夫妻は、看護婦Kに「道夫ちゃんをよろしく。お土産をどっさり買ってくるからね」と声をかけているのに、自分には何も言ってもらえず不安と嫉妬が益々、募っていきました。

そして、事件の数日前、家政婦Aは風邪をひいたため、寿美さんから「道夫ちゃんに近付かないように」と注意されるのですが、家政婦Aは、これを看護婦Kが寿美さんに言わせたのではと、看護婦K憎しの想いが増大していきます。

そして、8月24日の夜、食事の後片付けを済ませた家政婦Aは、午前1時すぎに風呂に入り、自分の部屋に戻ったところ、隣の部屋から道夫ちゃんのぐずる声が聞こえてきました。目を覚ましている道夫ちゃんを抱き上げ、夕涼み目的で庭先であやしていたところ、足が汚れたので、洗うために風呂場に行ったのでした。

浴槽に足を付けられてはしゃぐ道夫ちゃんを見ていた、家政婦Aはこう思うに至ります。

「道夫ちゃんさえいなくなれば、家政婦Kは必要なくなり、高島夫妻の愛情は自分に戻るのではないか」

その思いに駆られた家政婦Aは、道夫ちゃんを浴槽に沈め溺死させたのでした。

そして、このままではバレてしまうと思い、強盗に見せかけるため、部屋を荒らしたのでした。

犯人の現在とは?

家政婦Aは未成年でしたが、成人同様に殺人罪で起訴されますが、1965年6月、東京地裁は懲役3年~5年の不定期刑の判決を言い渡しました。

模範囚となった家政婦Aは、3年後の1968年には仮出所し、その2年後の1970年には結婚もしたとのこと。相手の男性は、家政婦Aの過去を全て知った上で結婚していて、2人の間には子供も生まれているとのこと。

出所後、家政婦Aはいくつかのメディアに登場し、高島夫妻に対する懺悔を告白していたとのことですが、約50年も前のことなので、当時のことを思い出す人も少なくなっていることでしょう。今も健在であれば家政婦Aは72歳となっていて、孫もいる年になっていますね。

一方、被害者となった高島夫妻は、事件の翌年の1965年に次男の政宏さんを、1966年に政伸さんをもうけますが、2人の悲しみは日に日に深くなっていき、2人の息子に長男がいたことは中々、話せずにいたと言います。

2013年6月、寿美花代さんは、1964年の長男殺害事件について、初めてテレビで当時のことを振り返り、今も手帳の奥に道夫ちゃんの写真をしのばせているて、なぜ、自分が一緒に寝てあげられなかったのか後悔していること、事件のショックから、いまだにお風呂は、浴槽に浸かることは出来ずシャワーしか浴びれないことなどを明かしました。