友田麻美子おニャン子クラブ幻のエースから人気バッグデザイナーへの逆転の現在とは?

テレビ

おニャン子クラブ幻のエースTは誰なのか?

6月3日放送のTBS「爆報THEフライデー」に、おニャン子クラブ幻のエースTこと、会員番号7番の友田麻美子さんが31年ぶりにテレビに出演されました。

週刊文春の1枚のスクープ画像(おニャン子クラブ喫煙事件)で、17歳で芸能界を引退となった友田麻美子さんは、奇しくも、1枚の画像がきっかけで、現在は、人気のバッグデザイナーとなっていました。

黒田知永子さんも愛用の友田さん手縫いのバッグのブランド「tearful cheerful」の注文方法についても調べてみました。

詳細を見ていきましょう。

友田麻美子がおニャン子クラブ幻のエースT!

1985年4月1日、おニャン子クラブを生み出した伝説の番組「夕やけニャンニャン」がスタートしました。

番組は夕方5時から1時間の生放送で、ただの女子高生だった女の子たちは、オーディション番組でおニャン子クラブに抜てきされ、一夜にしてスターとなっていき、世の中高生を中心に熱狂の渦を巻き起こし、社会現象にもなっていきました。

その中でも圧倒的人気を誇っていたのが、会員番号7番の友田麻美子さん、当時17歳でした。

友田麻美子さんは、東京都出身で、流行には敏感で、ファッションやメイクには人一倍こだわっており、17歳にして既に洗練された雰囲気があり、結成当初のおニャン子クラブでは絶対的中心人物でした。

友田麻美子さんは、高校1年の時には、「夕やけニャンニャン」の前身番組である「オールナイトフジ」のアシスタントに大抜擢されていて、その後のおニャン子クラブでは、エースとしての活躍が期待されていました。

当時のおニャン子クラブは、友田さんを中心とする都会派の5、6人が一軍メンバーで、後におニャン子のエースとなる国生さゆりさんは、そんな一軍メンバーに入れず、憧れていた1人だったそうです。

7月には、後に大ヒットとなるデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」の発売も決まっており、センターは友田さんが飾ると言われていました。

友田麻美子 1枚のスクープ画像で芸能界引退へ

おニャン子クラブでの活躍が期待されていた友田麻美子さんですが、1枚のスクープ画像で、芸能界から姿を消すことになってしまいます。

それは、おニャン子クラブ結成から1週間後のことでした。

「夕やけにゃんにゃん」の生放送後の午後6時、翌日の打ち合わせをしていた友田麻美子さんら一軍メンバー6人は、もう少しおしゃべりをしたいと夜の街に繰り出すことになり、当時、フジテレビのスタジオのあった河田町から電車で新宿西口まで行き、とある喫茶店に入りました。

そこで週刊文春の記者に撮られた写真が、未成年の友田さんら6人が喫煙している姿でした。

週刊文春の記者たちは、河田町のスタジオから出て来たメンバーをずっと尾行していたのでした。

人気が出かけて有頂天になっていた友田さんら一軍メンバーは、その自分たちの未熟な行動を後悔したときには、もう手遅れでした。

スクープ画像が週刊文春の記事になるとの一報を受けたフジテレビ側は、4月18日、友田さんらを番組から一時降板させ、スクープ写真が掲載された週刊文春が発売されるのに合わせて、4月25日に友田さんらを正式におニャン子クラブから解雇しました。

この時に、スクープ写真に写っていたおニャン子メンバーは以下の6人になります。

会員番号1番 奥田美香
会員番号2番 榎田道子
会員番号3番 吉野佳代子
会員番号6番 樹原亜紀
会員番号7番 友田麻美子
会員番号10番 佐藤真由美

この中から、会員番号6番の樹原亜紀を除いた5人が、おニャン子クラブを解雇となりました。

その後、おにゃん子クラブの「セーラー服を脱がさないで」は、約25万枚の大ヒットとなりましたが、友田麻美子さんは、定職にもつかず、昼はイベントコンパニオン、夜はプールバーで地道に働いていました。

この事件がなければ、自分も楽しくコンサートをしたりとかしてたのではないか、あの時、あんなことをしなければ・・・

自分の行いを悔やんでも悔やみきれない友田麻美子さんでしたが、負の連鎖は続きます。

高校生のころに両親が別居し、後に離婚となったことをはじめ、24歳の時には、結婚を考える恋人ができたものの、直前で婚約解消となり、現在、48歳となった今も独身でいました。

元々、美術系の高校に通っていた友田さんは、独学でデザインを学び、30歳の頃から手縫いのバッグを制作し、それを売って生計を立てていました。

その傍ら、友田さんは96歳の認知症の大叔母の食事や身の回りの面倒をみる介護生活を送っていました。

17歳の時に歯車が狂ってしまったものの懸命にがんばる友田麻美子さんに、ついに運命が味方してくれることが起こりました。

1枚の画像がきっかけで人気バッグデザイナーへ!

1枚の画像で人生を棒にふった友田麻美子さんを救ったのも、また、ある1枚の画像でした。

手縫いのバッグを制作して生計を立てていた友田麻美子さんでしたが、突如、大量にバッグの注文が入るようになったんです。

その理由は、とある情報誌の片隅に友田麻美子さんの手縫いのバッグの画像が掲載されたことでした。

この何気ない写真がきっかけとなり、バッグは口コミで広がり、当時から絶大な人気を誇るカリスマモデル、黒田知永子さんが持つまでになりました。

すると、黒田知永子に憧れるマダムたちから黒田知永子愛用のバッグとして、注文が殺到したのでした。

友田麻美子さんのバッグは完全オーダーメードで、愛犬など好きな写真やデザインを刺繍することが可能で、1点ずつ友田さんが手縫いで仕上げる世界に1つしかないバッグなのでした。

31年前、1枚の写真で人生の歯車が狂った友田麻美子さんでしたが、また1枚の写真がきっかけで、人気のバッグデザイナーとなり、大逆転の人生を歩み始めました。

騒動から31年を経て、友田麻美子さんがおニャン子クラブのメンバーに思うことを打ち明けてくれました。

「(おニャン子クラブの)みんなが頑張っている姿があるから、私も頑張らないとなと思いました。またおニャン子のメンバーといつか会えたらいいなと思いますね。」

友田麻美子さんの顔には笑顔が溢れていました。

友田麻美子さんは、たくましく自分の人生を生きていました。

友田麻美子さんのバッグは「tearful cheerful」

おニャン子クラブにそんな幻のメンバーがいたとは知りませんでした。

一軍メンバー6人ということで、今のAKB48で言えば、神7がごそっと急にいなくなったようなものだったそうです。もし、写真が撮られていなかったら、どういうグループになっていたんだろうと、ついつい想像してしまいますよね。

そして、この頃から週刊文春はやってくれていたのですね。写真に撮られたのは、まぎれもない本当の姿だから、撮られたことを恨むより自分を恨むしかないのが、友田さん本人としてはとても辛いことだったのではと思います。

そして、気になったのが、友田麻美子さんの手縫いのバッグです。

番組で紹介された画像には、バッグのブランド名は「teaxful cheexful」となっていましたが、情報誌のミススペルですね。ひどいなこれw 正しくは「tearful * cheerful」です。

友田さんの手縫いバッグ・カバンのブランド「tearful * cheerful」のFacebookページがこちらになります。ご興味のある方はページにいいねをして、メッセージを送ってみてくださいね。

『tearful * cheerful』FBページ

名前 友田 麻美子(ともだ まみこ)
生年月日 1968年1月8日(48歳)
身長 160㎝
おニャン子クラブ 会員番号7番
1987年4月25日卒業
職業 バッグデザイナー
オリジナルバッグ制作
所属事務所 アイント(AIN’T)

コメント

  1. mamico a.tomoda :
    TVショーというコトで、だいぶ編集され演出されてしまいまして
    不本意な放送内容でしたが
    このようにキチンと取り上げてくださっているので
    コメントを残そうと思いました。
    『tearful * cheerful』のミスプリントについても
    スペルを正して載せてくださった事も大変嬉しいです☆
    ありがとうございました!

    • mamico a.tomoda様

      ご本人様からコメントをいただきありがとうございます。
      この記事がtomoda様にとって何か役立つお手伝いが出来ましたら嬉しく思っております。