バレーボール女子日本代表の中田久美監督と言えば、2004年の「てめえらコノヤロー!」事件が有名な怖いイメージがありますが、若い頃は日本代表のセッターとしてロス五輪で銅メダル、監督としても、久光製薬スプリングスを女子チーム初めての3冠達成させるなど、伝説を作り続けている人物です。
現在も日本女子が世界で優勝するにはどうしたらよいかを考え続ける中田久美監督ですが、プライベートではどのような人物なのでしょうか。
結婚をしているのであれば、相手の旦那や子供はいるのでしょうか。
激やせが噂されていますが、病気ということはないのでしょうか。
中田久美監督「てめえらコノヤロー」事件とは?【動画】
中田久美監督の「てめえらコノヤロー」事件とは、
2004年5月16日に放送されたフジテレビ「すぽると」で起こりました。
その日、日本女子は、19時から始まった最終戦のロシアに敗れたものの、
2004年アテネオリンピックのバレーボール世界最終予選をリーグ1位で通過して、2大会ぶりにオリンピック出場の切符を獲得し、その興奮が冷めやらぬ中、23時55分から始まった「すぽると」に祝!アテネ出場として緊急生出演をしていました。
試合後、すでに勝利の祝杯をあげていた選手たちは、お酒が入っていて全員キャーキャーと大はしゃぎのハイテンションで緊張感はまるで0。
解説として出演していた中田久美さんはテレビ向けに笑顔を見せていましたが、
この日のロシア戦の試合のVTR映像に切り替わったところで、
「てめえらコノヤロー!!」
と選手たちに一喝した声がマイクで拾われて、テレビで流れてしまったのでした。
VTR明けの選手たちは、全員真顔、ある選手は中田久美さんの様子を窺っていたり、笑顔が引きつっている選手もいました。
中田久美さん曰く、
オリンピックでメダルを目指している選手達が、これぐらいのことでここまではしゃいじゃいけないでしょ、と、マイクはオフになっていると思い、あのタイミングで喝を入れたのだそうです。
放送事故を起こしてしまった中田久美さんは、もうフジテレビには呼ばれなくなることを覚悟したそうなのですが、なんと反対に「ご指導ありがとうございます」と協会関係者から感謝されたのだそうです。
そんな中田久美監督は、若い頃から怖いイメージがありました。
中田久美監督の若い頃の画像とプロフィール
中田久美監督は、1965年9月3日生まれの現在、53歳です。
身長176㎝、体重62㎏、血液型A型。
東京都練馬区出身で、名前の由来は9月3日生まれで「くみ」なんだとか。
バレーボールを始めたのは中学(練馬区立練馬東中学校)に入学してからですが、2年生の時に、バレーボールのエリート育成のための人材発掘をしていた山田重雄氏のテストを受け、その才能を買われ、し英才バレー塾の寮に入りバレーの才能を開花させ、中学3年生で全日本代表に選出されるまでになります。
当時の中田久美選手はエースアタッカーでしたが、山田重雄氏から告げられたポジションは、チームの司令塔となるセッターでした。
18歳で出演したテレビ番組で、中田久美選手は、セッターはやりたくなかったけど、あのままアタッカーを続けていたら平凡な選手になっていたと思う、と当時を振り返りました。
高校は通信制で、山田重雄氏のいる日立に進み、在籍1年でセッターとしてスタメンを獲得します。
1983年からは日本代表でもスタメンセッターとなり1984年のロスオリンピックで18歳で銅メダルを獲得します。
オリンピックのメダルはこの時だけになりますが、表彰式の中田久美さんの顔はちっとも嬉しそうではありませんでした。
それもそのはず、中田久美さんは銅メダルだったのが悔しくて悔しくて仕方がなかったのだそうです。
1986年の世界選手権では主将を務めますが、同年11月に選手生命に関わる重傷となる右膝前十字じん帯を断裂し、リハビリで奇跡の復活を遂げ、ソウル(1988年)、バルセロナ(1992年)とオリンピック出場を果たしますが、メダルには手は届かきませんでした。
中田久美監督の結婚相手の旦那や子供はいる?
中田久美監督は、バルセロナ・オリンピック(1992年)後に現役を引退し、翌年の1993年に結婚をしています。
結婚相手の旦那の名前は、林隆夫氏です。
林隆夫氏についての情報はあまりないのですが、父親が歴史学者の林亮勝氏(隆夫は長男)。
林隆夫氏は、高校時代に野球部で、国学院久我山高校の選手として、1979年の第51回の選抜高校野球大会に出場しています。
1979年に高校生だったことから、生まれた年は1961年~1963年頃で、中田久美監督の2~4歳年上で、現在の年齢は、55歳から57歳でしょうか。
2人の間に子供はおらず、1996年には離婚となり、以来、中田久美監督は独身を貫いています。
離婚の理由は明らかになっていませんが、中田久美監督は家庭に納まるタイプの女性では無かったのでしょう。
1995年には現役復帰をしますが、1997年以降は所属していた日立を退社し、バレーボールの指導者や各地での講演、解説者やタレントとして活動の場を広げていきます。
中田久美監督の激やせの理由は病気なの?
現在の中田久美監督の姿について、激やせしたのではないか、その理由は病気なのではとの心配の声が上がっています。
中田久美監督の激やせと聞いて想い出すのは、現役引退後にモデルに挑戦していた時のことです。
こちらは1998年に発売された写真集の中田久美監督の画像になります。
中田久美監督は完璧主義者だそうで、モデルの仕事に挑戦のだから、徹底的に体重管理をして、現役時代よりも痩せ、歩き方や服の見せ方も1から学んだといいます。
何かに集中した時はストイックにのめり込むタイプのように思います。
こちらは2007年当時、スポーツキャスターとしての顔画像になりますが、
テレビ映りを気にしてか、この時もしゅっとしたスリムな顔になっていますよね。
この後、2008年から、中田久美監督は、本格的に指導者の道に進むことになります。
当時、女子バレーの世界最高峰だったイタリア・セリエAに渡りコーチ修行に励んだのでした。
日本バレー界では史上初の挑戦だったそうですが、それ以来、中田久美監督は、どうしたら日本は勝つのか、そういう見方で行動をしてきたといいます。
こちらはイタリアから帰国後、
2011年に久光製薬スプリングスのコーチ→2012年監督へと就任した頃の中田久美監督になります。
ちょっとふっくらしたイメージがありますが、イタリアの食事でそうなったのかもしれないですね。
久光製薬での中田久美監督は、
2012年~2016年の全日本バレーボール選手権大会(皇后杯)で5連覇を果たし、2013年には、V・プレミアリーグ、黒鷲旗、皇后杯に優勝し、女子史上初の3冠を達成しています。
そして、2016年10月25日、日本バレーボール協会理事会で、満場一致で、バレーボール女子日本代表の監督に選出されました。
伝説のチームを作るため「心を鬼」にし、数々の改革に乗り出す中田久美監督。
全日本の練習は、これまでの2部制から3部制となり、朝は7時から練習が始まります。
極限まで選手たちを追い詰める中田久美監督の指導は、
選手だけでなく、中田久美監督自身の身をも削っていることでしょう。
激やせは、それだけ中田久美監督がストイックに監督業に没頭しているからこそと推測します。
中田久美監督率いる全日本女子の活躍を楽しみにしたいと思います。
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