OJシンプソン事件の真相を暴いた写真とは?刑事裁判の判決を覆した弁護士と父親の闘い、そして現在とは

テレビ

10月2日放送の「世界法廷ミステリー」で、『世紀の裁判O.J.の告白』として、OJシンプソン事件の真相を語るO.J.シンプソン本人のインタビュー映像がテレビで日本初公開されました。

1994年6月17日、元アメリカンフットボールの選手として全米では知らない者のいない国民的スーパースターであったOJシンプソン(当時46歳)が、元嫁とその交際相手の殺害容疑で逮捕されました。

1995年1月24日に開廷された刑事裁判は、逆転に次ぐ逆転で、OJシンプソンは無罪の判決を勝ち取りますが、その後の民事裁判では有罪となりました。

刑事裁判で無罪の判決を勝ち取ったOJシンプソンは、民事裁判を起こした被害者の父親とその弁護士の前に、ついに真相を見せたのでした。

事件から20年経った現在になって、裁判所で封印されていた民事裁判前に行われたOJシンプソンのインタビュー映像が公開されることとなりました。

無罪判決を覆したのは、たった1枚の写真でした。写真を見たOJシンプソンは何を語ったのでしょうか、そして、OJシンプソン事件の真相と真犯人とは、一体、誰なのでしょうか。OJシンプソンの現在までを追っていきます。

OJシンプソンのプロフィール

OJシンプソンは、1947年7月9日生まれの現在、71歳です。

1969年、大学を卒業したOJシンプソンは、バファロー・ヒルズにドラフト全体1位で入団し、ランニングバックのポジションにつきます。

OJシンプソンは、185cm、96kgの体格にもかかわらず、100mを10秒台前半で走り、アメフトにスピード革命をもたらしたスーパースターとなりました。

日本で言えば、野球界の長嶋茂雄さんや王貞治さんのような存在だったと言います。

プライベートでは、金髪の美人モデルと結婚し、アメフト引退後はハリウッドスターに転身を果たしました。

OJシンプソン事件の概要

1994年6月13日午前0時10分頃、米・カリフォルニア州ロサンゼルスで、近所の住民からの通報で事件は発覚しました。

被害者は、OJシンプソンが2年前に分かれた元嫁、ニコール・シンプソン(当時35歳)とニコールの交際相手と噂されていた男性のロナルド・ゴールドマン(当時25歳)。

2人の遺体がニコールの自宅玄関前で発見されました。

刑事として現場に最初に駆けつけたのは、ロサンゼルス市警のマーク・ファーマン刑事でした。

マーク・ファーマン刑事は、警察学校時代から成績優秀で、その功績から過去55回もの表彰を受けているロス市警きっての敏腕刑事でした。

マーク・ファーマン刑事は、現場で犯人のものと思われる左手の手袋を見つけます。

このマーク・ファーマン刑事がOJシンプソンを追い詰めたキーパーソンの1人となりました。

事件直後、OJシンプソンは、亡くなった元嫁を子供たちと共に弔いました。

「私とニコールはとてもいい関係でした。どうしてこんなことになってしまったのか。私は彼女をずっと愛し続けます」

OJシンプソンは弁護士を通じて、当時の心境を語っていました。

事件から5日後の1994年6月17日、容疑者として浮上したのは、OJシンプソンでした。

事件の現場から見つかった血痕をDNA鑑定したところ、OJシンプソンの血液と一致したのでした。

OJシンプソンは、悲劇のスーパースターから、一転、容疑者となりました。

警察がOJシンプソン逮捕のため自宅の豪邸へと向うと、OJシンプソンの姿は、ロスの高速の車の中にありました。OJシンプソンの乗る車とパトカーの追跡は、全米のテレビで生中継されました。

こちらの動画は、当時のカーチェイスについて20年後の現在としてCNNのテレビで特集されたものです。

特集の中で、当時、OJシンプソンの乗る車を運転していたAC(アル・カウリングズ)は、OJシンプソンは逃走する気はなく、実家に居る母親に会いたかっただけだったと伝えています。

1時間半のカーチェイスの末、OJシンプソンは逮捕されました。

OJシンプソン事件、刑事裁判 敏腕弁護士の作戦とは

OJシンプソンは、弁護士費用約5億円とも言われる金額を投じ、「ドリームチーム」と呼ばれる敏腕弁護士からなる弁護団を結成します。

後にマイケル・ジャクソンの裁判で示談に持ち込んだジョニー・コクラン弁護士、マイク・タイソンの事件をその後担当した憲法学者、アラン・ダーショビッツ氏、JFK事件などを調査した法医学者のヘンリー・リー氏からなるドリームチームは、裁判の法廷で、OJシンプソンには一切、発言をさせませんでした。

OJシンプソンは、自分を守れるほど頭の良い男ではないとの判断からでした。

有罪が証明されるまでは、OJシンプソンは推定無罪であり、弁護団が検察側の証拠を否定できさえすれば、OJシンプソンが証言しなくても無罪を勝ち取ることが出来るとの作戦でした。

1995年1月24日、OJシンプソン事件の刑事裁判が開始しました。

全米のメディアは法廷の様子を連日テレビで生中継しました。

有罪を主張する検察は、OJシンプソンと被害者の元嫁ニコールの関係について語りました。

検察は、結婚していた当時のニコールの写真を見せました。

そのニコールの体や顔にはアザができていて、旦那のOJシンプソンからの暴力に苦しめられ離婚をしたと主張しました。

離婚の翌年、ニコールは、OJシンプソンが家に侵入して騒いでいると警察に通報していました。

OJシンプソンは離婚後もニコールに付き纏っていたのでした。

検察は、OJシンプソンに終身刑を求刑しました。

それに対し、ドリームチームの弁護士は、事件当時、OJシンプソンは、元嫁のニコールとの関係から抜け出し、ポーラ・バルビエリという新しい恋人がいたため、ニコールへの嫉妬は無かったと主張しました。

また結婚時代のDVは今回の事件の証拠にはならないと、検察の主張を一蹴したのでした。

とは言え、検察にはOJシンプソン事件の証拠を持つ絶対的な人物がいました。

それが、刑事として現場に最初に駆けつけたロス市警のマーク・ファーマン刑事でした。

OJシンプソン事件、刑事裁判 3つの物的証拠とは

1.現場の足跡

マーク・ファーマン刑事は現場に残された血の付いた靴跡を見つけていました。

現場に残された靴のサイズはOJシンプソンと同じ30cmでした。

この靴跡は「ブルーノマリ」というブランドの靴で、アメリカでたった40店舗でしか売られていないものでしたが、その内の1つはOJシンプソンがよく靴を買っていたデパートでした。

それに対し、ドリームチームの弁護士は、その店を探し、実際に訪れ、誰もOJシンプソンにこの靴を売った人がいなかったと反論しました。OJシンプソンがこの靴を持っていたという証拠は何一つないと主張しました。

実際、当時の警察の捜査でも、OJシンプソンの持ち物からこの靴を見つけることはできませんでした。しかし、OJシンプソンが靴を処分した可能性も考えられていました。

2.靴跡の左側に落ちる血痕(犯人は左手にケガをしている)

現場の靴跡の左側には小さな血痕が点々と残されていたのを、マーク・ファーマン刑事が見つけていました。

そこから犯人は、左手にケガをしているのではと推測したのでした。

そして、事件翌日に事情聴取を受けたOJシンプソンの写真では、左手の中指にケガをしたOJシンプソンが写っていました。

OJシンプソンは、事件当日の夕方には娘のダンス発表に参加していましたが、夕方に撮影された写真には、OJシンプソンの指にはまだケガはありませんでした。

ということは、ケガをしたのは、娘の発表会6月12日の午後6時後から、事情聴取を受けた翌日6月13日の正午の間ということになります。犯行時刻はその間の6月12日午後10時から11時であることがわかっています。

検察は、現場に残された血痕は、DNA鑑定で全てOJシンプソンの血液と一致したため、OJシンプソンは事件があった夜に現場でケガをして血を残したのだと主張しました。

それに対し、ドリームチームの弁護士は、OJシンプソンは事件当日、ニコールの家には行っていないこと、指の傷はシカゴのホテルでグラスやガラスの破片でできたものであると反論しました。

事件当日、OJシンプソンはシカゴに飛び立っていましたが、事件翌日に、警察が撮ったOJシンプソンが滞在していたシカゴのホテルの部屋の写真からは、割れたグラスと血の付いたタオルが写されていました。

3.右手の手袋

事件発生直後、マーク・ファーマン刑事は事件を知らせるため、元夫のOJシンプソンの自宅を訪れていました。

OJシンプソンは既にシカゴに発った後で、自宅にはいませんでしたが、アーク・ファーマン刑事は、OJシンプソン宅の通路に落ちている血痕に気づき、捜査令状を持っていませんでしたが、門を乗り越え敷地内に入ったのでした。そこで、ファーマン刑事は、血の付いた黒い右手の手袋を見つけます。

そして、その手袋には被害者のニコールとロナルド・ゴールドマンの血液が付着していたのでした。

市民からはマーク・ファーマン刑事への賞賛の声が相次ぎました。

決定的な証拠の登場に、検察はその手袋を陪審員の前でOJシンプソン本人にはめさせることになりました。

ところが・・・

手袋はOJシンプソンの手には、はまりませんでした。

OJシンプソンの手にはその手袋はどう見ても小さすぎました。

ということは、この手袋はOJシンプソンの手袋ではなかったことになります。

「手袋がはまらないなら無罪にすべきです」

ドリームチームの弁護士が陪審員に強く語りかけます。

OJシンプソンが犯人ではない可能性を全米のメディアは大きく報じました。

決定的と思われた三つの証拠は、ドリームチームの弁護士たちによって、全て否定されたのでした。

マーク・ファーマン刑事が物的証拠を捏造した?

それでは、現場から見つかったOJシンプソンの血痕や証拠は何だったのでしょうか。

ドリームチームの弁護士たちは、マーク・ファーマン刑事が証拠を捏造したと訴えました。

OJシンプソンの自宅から発見された手袋は、ファーマン刑事が勝手に置いたものだと主張したのでした。

そして、ドリームチームの弁護士は、成績優秀で今回の事件でも市民から賞賛されている敏腕刑事のマーク・ファーマンの裏の顔を暴く証拠を手に入れていたのでした。

それはかつてファーマン刑事が受けたインタビューの音声テープでした。

音声テープには、マーク・ファーマン刑事が黒人を差別する言葉を頻繁に使っていたほか、数々の人種差別発言をしていたことが明らかとなりました。

証言台に呼ばれたマーク・ファーマン刑事は、OJシンプソン事件の証拠品の捏造について問われますが、否定はせず「黙秘権」を行使しました。

捜査報告書の捏造についても、否定はせず「黙秘権」を行使しました。

賞賛の的となっていたファーマン刑事の人種差別発言が明らかとなったことで、一転、市民からは批難の声があがり始めました。

一躍、ヒーローとなったファーマン刑事は、証拠を捏造した疑惑の警察官として糾弾されたのでした。

この裁判が始まる3年前の1992年4月、ロサンゼルスでは、ロス市警の白人警察官が無抵抗の黒人を暴行したものの、裁判で無罪評決が下されたことから、黒人住民が暴徒化する人種間の緊張の高まりがありました。

この人種間の歪みがOJシンプソン事件の裁判の時にも残っていたのでした。

黒人の多くは、OJシンプソンの「無罪」を望み、白人の多くは「有罪」を信じたのでした。

裁判開始から8か月後の1995年10月3日、OJシンプソン事件の裁判は判決の日を迎えました。

「我々、陪審員はOJシンプソンを

『無罪』

とします。」

陪審員は、証拠は疑わしく、DNA鑑定もずさんな検査と結論付けました。

OJシンプソン事件、刑事裁判の裏側・真相とは

判決をくだした陪審員の内訳は、12人中、黒人が9人、白人は3人でした。

裁判が始まる前、弁護側はOJシンプソンが有利になるよう黒人の陪審員を増やすことに成功していたのでした。

当時のロス市警は黒人たちとの関係が悪かったため、この裁判で陪審員がOJシンプソンに無罪の判決を下したのは、OJシンプソンが犯人かどうかは関係が無く、ロス市警への仕返しだったとの意見もありました。

OJシンプソンの手には小さかった手袋については、後にこんな報道が持ち上がりました。

当時、OJシンプソンは関節炎を患っていましたが、裁判が始まる1か月前から、関節の腫れを抑える薬を飲むのを止めていたというのです。

つまり、OJシンプソンが裁判で手袋をはめた時、手は腫れ上がっていたため手袋が入らなかったというのです。

無罪となったOJシンプソンは、逮捕から1年4か月ぶりに自宅に帰宅しました。

「俺は人生を取り戻した!」喜びに叫ぶOJシンプソン。

アメリカの法律では、判決が確定した刑事事件の裁判については、その事件について再度、審理をすることは出来ません。

OJシンプソンを、これ以上、同じ罪で問うことは出来ず、OJシンプソンが無罪であることは二度と覆ることはないのです。

OJシンプソンは映像の中で、思わず、こうつぶやいたのでした。

「検察は殺人者を勝たせてしまったな。」

OJシンプソンのこの言葉は何を意味しているのでしょうか。

OJシンプソン事件、民事裁判での弁護士の作戦とは

被害者であるロナルド・ゴールドマンの父親のフレッド・ゴールドマンは諦めませんでした。

OJシンプソン事件の裁判でメディアに取り上げられるのは、元嫁のニコールのことばかりで、ロナルド・ゴールドマンについてはほとんど報道されず、忘れられた被害者となっていました。

しかし、フレッドにとってはかけがえのない息子でした。

OJシンプソンは本当に犯人ではないのか?

だとすると、何故、何も語らなかったのか・・・

フレッド・ゴールドマンは民事裁判を起こします。

民事裁判では、ロナルドの死の責任が誰にあるのかが問われるため、事実上、OJシンプソンが犯人であるかを問う最後の手段でした。

当時、無罪判決を受けたOJシンプソンは周りからヒーロー扱いされており、「世紀の裁判」と呼ばれた事件で無罪となった男を有罪とするのは難しい状況でした。

フレッドは知人から紹介されたダニエル・ペトロチェリ弁護士に依頼をしました。

ぺトロチェリ弁護士は優秀でしたが、殺人事件の裁判経験はゼロでした。

依頼を断ろうとフレッドの元を訪ねますが、フレッドの息子への想いに心を動かされ、共に闘うことを決意します。

ぺトロチェリ弁護士には、ある秘策がありました。

民事裁判は、刑事裁判と違って、しゃべることを拒否すれば、OJシンプソンは戦わずして負けることになると言うのです。

刑事裁判では、OJシンプソンの犯行が完全に証明されなかったため、OJシンプソンはしゃべらなくても無罪となりましたが、民事裁判では、訴えた方と、訴えられた方のどうちらの主張が信頼できるかが判断の基準となるため、OJシンプソンにインタビューを申請し、もし、OJシンプソンが拒否したら、陪審員の印象を下げて不利にすることができるのです。

敗訴すれば、巨額の賠償金を支払うことになるOJシンプソンは、必ずインタビューに応じるはずと、ぺトロチェリ弁護士は考えたのでした。

1996年1月22日、OJシンプソンはインタビューに応じ、ぺトロチェリ弁護士の元を訪れました。

裁判所から許されたのは10日間でした。その中で事件の真相を本人の口から引き出す必要がありました。

OJシンプソンのインタビュー証言は、OJシンプソンの弁護士、遺族のフレッド・ゴールドマンが立ち合いのもと始まりました。

ぺトロチェリ弁護士は、刑事事件の証拠に基づきOJシンプソンに質問をしますが、何も聞きだせないまま時間だけが過ぎていきました。

OJシンプソンは、ぺトロチェリ弁護士の質問を全く相手にしない余裕の態度でした。

1日目、2日目、3日目、・・・8日目、OJシンプソンは、何もボロを出すことなく、平然と答えていきました。

残されたのはあと2日でした。

そんな中、ぺトロチェリ弁護士は新たな証拠を見つけました。

それは、OJシンプソンの電話の通話記録でした。

事件当日、OJシンプソンは、同じ番号に何度も電話をかけていたことがわかりました。

それは事件発生の直前に8回もかけられていました。

その相手は、女優のポーラ・バルビエリで、事件当時、OJシンプソンの恋人だった女性でした。

刑事裁判では、ドリームチームの弁護士は、OJシンプソンは恋人ポーラがいたため、元嫁のニコールに嫉妬などしていなかったと主張しました。

ぺトロチェリ弁護士は、ポーラ・バルビエリを呼び出してインタビュー証言を撮りました。

そこで、ポーラは、OJシンプソンとの交際は順調ではなく、6月の日曜の朝にOJシンプソンに別れたいと告げていたと告白しました。

その日は、事件のあった日でした。

事件当日の朝に、ポーラはOJシンプソンに別れのメッセージを残していたのでした。

その留守電メッセージを聞いたOJシンプソンは、別れの説明を求めて8回も電話をかけたのでしょうか。

ポーラは、元嫁のニコールとその娘の存在が理由でOJシンプソンと別れることを決意したと語りました。

OJシンプソンは、新恋人のポーラとの破局の原因となったニコールへの恨みから犯行を行った可能性が出てきました。

ぺトロチェリ弁護士は、この事実をOJシンプソンにぶつけました。

しかし、OJシンプソンは動揺することなく新事実を否定しました。

インタビューは、決定的な証言を得る事が出来ないまま、時間切れとなってしまいました。

OJシンプソン事件 民事裁判 1枚の写真が真相を暴く

このまま裁判となったら勝ち目はない…

そんな時、ぺトロチェリ弁護士のスタッフが、その日の新聞を持って駆けつけてきました。

ぺトロチェリ弁護士「間違いない、ヤツを落とせるぞ」

ぺトロチェリ弁護士は、インタビューを1回だけ延長することを裁判所に申請しました。

その新聞に掲載されていた1枚の写真が、OJシンプソン事件の刑事裁判での主張を覆す決定的な証拠となることを確信したのでした。

11回目のインタビュー、

ぺトロチェリ弁護士は、その1枚の写真をOJシンプソンにつきつけました。

その写真を見たOJシンプソンは、その目を大きく見開きました。

その写真は、事件発生の9か月前に撮られたもので、そこには、アメフトのイベントに出席するOJシンプソンが写っていました。

そして、そのOJシンプソンは、事件現場で発見された靴跡と同じブルーノマリの靴を履いていたのでした。

更に、写真の中のOJシンプソンの右の靴は靴底がかすかに見えていて、それは事件現場の靴跡の模様と一致したのでした。

つまり、OJシンプソンはあのブルーノマリの靴を持っていたのでした。

刑事裁判では使われなかったこの写真は、OJシンプソンが事件現場にいたことを示すきわめて有力な証拠となりました。

決定的な写真を目にしたOJシンプソンは、目を見開きながらも、

「この靴には見覚えがないなぁ」とはぐらかしますが、写真を突き付けられた際の、驚きようが全てを語っていました。

1997年3月10日、民事裁判の判決は、ロナルド・ゴールドマンの父親、フレッド・ゴールドマンの勝利となりました。

OJシンプソンは、2人の死に責任があると判断されたのでした。

事実上、OJシンプソンが事件の真犯人であると世間は受け止めるに至りました。

無罪判決だった刑事裁判から1年4か月、世紀の裁判は民事での大逆転で終わりました。

ロナルドの父親、フレッド・ゴールドマンは勝利のインタビューでこう語りました。

「2年半を超えて、やっと息子とニコールの正義を果たすことができました。『完全な真実』です。責任ある評決にとても感謝しています。それだけをずっと求め続けてきました。ありがとう。」

OJシンプソンの現在とは

敗訴したOJシンプソンは、約40億円もの賠償金を支払うよう裁判所から命じられました。

多額の弁護士費用をかけたOJシンプソンにとっては、もはや支払うことのできない大金でした。

2001年、OJシンプソンは民事裁判の判決を不服として控訴しますが、棄却となりました。

そして、

2007年9月16日、OJシンプソンは強盗容疑などで逮捕となりました。

賠償金を支払うことのできないOJシンプソンは、アメフトの現役時代に獲得したトロフィー等を裁判所に差し押さえられていました。

それらは、全てを失ったOJシンプソンにとって唯一、誇れる過去の栄光でした。

OJシンプソンは、そのトロフィーをオークションで落札した男性を脅して奪い取る行動に出てしまいまったのでした。

2008年10月3日、61歳となったOJシンプソンに下された評決は、最長禁固33年の有罪刑でした。

有罪判決が下されたその日は、OJシンプソンが刑事裁判で無罪となった1995年10月3日と奇しくも同じ日となりました。

2013年7月31日、OJシンプソンはいくつかの容疑で仮釈放を認められましたが、他の容疑で少なくとも2017年までは塀の中でい続けることが報じられました。

そして、

2017年10月1日、9年の刑に服したOJシンプソン(当時70歳)は、仮釈放が認められ、ネバダ州の刑務所を後にしました。

2018年現在、OJシンプソンは、当初、公表していたフロリダには移らず、ネバダ州ラスベガス近くの知人宅に身を寄せ、ゴルフを楽しむ毎日を送っているといいます。

コメント

  1. 日頃差別差別と言う者達の多くがが中国北朝鮮韓国の人権弾圧には無言だからな
    どういう意図で言ってるのかがよく判る
    国連人権委員会の理事国がチベットウイグルで民族弾圧してる中国が入ってるのは笑えないギャグ

  2. 人種差別に配慮して刑事裁判の裁判官を日系人が務めたことは触れないんだね
    まぁ、あの人も性差別者だって非難されてるから微妙だけど
    (男性に対してはミスターを付けて呼ぶのに、女性検察官だけ名前を呼び捨てとか。色々態度について指摘されてる)

  3. しかし誤字が多いですね

  4. キム・カーダシアンの親父が彼の弁護士

  5. これ全部お芝居だよ。33のフリーメイソンリー数が何回も絡んでいるでしょ。海外では有名な話。

    • でたー陰謀小僧ww

  6. 人種差別はどこの国にも根強く存在しますね。
    日本が一番人種差別のない国です。
    すぐに「日本は差別がー」とヒステリーになる反日馬鹿は海外の生活事情に無知すぎ。
    欧米圏の差別撤廃運動は「わが国には人種差別などありません!」と声高に宣言宣伝して周ることからはじまります。
    社会を改革していく上での方法論の違いですから当然文化圏ごとに異なります。
    だから欧米では宣伝と実情にかなりの差があります。
    その宣伝を真に受けてしまうんでしょうね。

    • とてもそうは思えない。
      ネット上で反日反日言ってる人とかネトウヨばっかりじゃん。
      余命はお金集めるだけ集めて逃げたし。
      愛国心でもなんでもなく、差別して気持ちよくなりたい人ゴロゴロおる。

      • 日本にも差別はあるけど少ない方だと思う。もちろんだからと言ってこのままでは良くない。外国人美化は他国より多いと思うし色々と意識改革は必要だと思う。
        ネットの一部を取り上げて決め付けるなんて世界観が狭すぎでは?

  7. これ、ドリームチームを結成した時点で有罪認めたようなものだろw
    有罪を覆せるくらいの実力者を何人も、巨万の富を注ぎ込んで雇うなんて、真に無罪のやつならしない
    しかもこいつは無名の立場の弱い黒人とは違って影響力もあるんだから

    冤罪の黒人vs国家権力の白人
    って構図にして世論や陪審員を煽り操った弁護側が見事だったって話か

  8. OJシンプソン映画探偵ブレナン ジャッカードラマルーツ

  9. アーニーディビスOJシンプソンジムブラウンスター

    • OJ事件は被害者が白人だから日本でも話題になっただけ被害者が同じ黒人なら話題にもならなかったそれこそ今だに残る人種差別の実体