大坂なおみ選手はアメリカ国籍の父親と日本人の母親の間に生まれたハーフですが、父親はどのような人物なのでしょうか。
調べてみると、父親の名前はレオナルド・フランソワ氏で、職業は出身地であるハイチの映画監督ということがわかりました。
大坂なおみさんの父親は、なおみさんが3歳の時から独学でテニスを教え、コーチとして現在の大坂なおみさんを育て上げた人物です。
大坂なおみさんの父親について、出身地や大学などの学歴と経歴、なおみさんへの熱血テニスコーチ人生を調べてみました。
大坂なおみの父親の職業はハイチの映画監督!【画像】
大坂なおみさんの父親の職業について調べてみると、なんと、ハイチで映画監督として活動していることが分かりました。
ハイチでは、ハリウッドならぬベリウッド(Bellywood)が映画産業の中心地のようで、大坂なおみさんの父親は2008年~2009年頃に3本の映画を作っていたようです。
その頃は、大坂なおみさんが中学校時代で、テニスに集中するためにフロリダに移り住んだ後で、なおみさんのコーチも兼ねていた時期になります。
こちらは作品の1つ「Hard Time」の予告編ですが、大坂なおみさんの父親は俳優ではなく映画監督なので、画面の中には出て来ません。
大坂なおみさんの父親は、国籍はアメリカですが、ハイチの出身です。
大坂なおみの父親の出身地と国籍・学歴&経歴プロフィール【画像】
大坂なおみ選手の父親の名前はフルネームが、
レオナルド・マキシム・フランソワ(Leonard Maxime Francois)氏で、
中米のハイチ共和国南部の港町ジャクメル(Jackmel)で生まれました。
フランソワ氏のFacebookによると、
高校はアメリカ・シカゴのチルデン高校(Tilden High School)で、
この頃までにアメリカ国籍を取得したようですね。
そして、大学は、メディアではニューヨーク大学(NYU)と報じているところが多いですが、フランソワ氏のFacebookの学歴よると、ニューヨーク市立大学(CUNY)となっています。
ニューヨーク大学は私立の名門大学、ニューヨーク市立大学は、アメリカで最も歴史のある公立大学群の1つで、いずれにしてもフランソワさんは優秀な学生だったようですね。
そして、学生だった1990年頃、日本の札幌で、大坂なおみさんの母親となる大坂環さん(当時19歳)と出会い恋に落ちます。
父親のフランソワさんは1990年頃に学生だったということなので、その当時のフランソワさんの年齢は20~22歳であると考えられます。
とすると、生まれた年は1969年前後と思われ、現在の年齢は49歳あたり、ということになります。
話を環さんとフランソワさんに戻すと、
環さんは、2人の交際は、北海道最東端の根室に住む環さんの両親には秘密にしていました。
環さんが如何にフランソワさんのことを好きであっても、外国人、しかも黒人と付き合うことは、昔ながらの価値観を持つ環さんの両親には受け入れられるはずがないことを知っていたようです。
その事実が露呈したのが、環さんが20代前半になって、父親からお見合いを薦められるようになり、フランソワさんとの交際の事実を告げた時でした。
交際を認めてもらうことができなかった2人は1994年頃、駆け落ちのように北海道から大阪に移り住むこととなりました。
大阪に住居を構えたのは、仕事がみつかったからとも報じられています。
その時のフランソワさんの職業は、英会話塾の先生だったそうです。
ということは、父親のフランソワさんは、ある程度の日本語を話すことができていたようです。
そして、長女の大坂まりさんが1996年4月3日に生まれ、その18か月後の1997年10月16日に次女の大坂なおみさんが誕生します。
大坂なおみの父親の職業は熱血テニスコーチ!
大坂なおみさんのテニス人生は大阪に住んでいる3歳の頃(2000年)から始まりました。
2000年の頃と言えば、女子テニスでは、アメリカのセリーナ・ウィリアムズとヴィーナス・ウィリアムズ姉妹がグランドスラムでの姉妹対決で沸いている時期でした。
大坂なおみさんの父親のフランソワさんは、ウィリアムズ姉妹の父親のリチャード・ウィリアムズ氏がテニスを全くしたことがなかったにも関わらず、姉妹のコーチとなり、グランドスラムで活躍する選手に育て上げたことを見て、自身もテニスはちょっとしかやったことがないものの、同じようにすれば、まり・なおみ姉妹も一流の選手となるのではと思ったのだそうです。
当時、母親の環さんが働いていたオフィスのすぐ近くに関西テニスの中心地である靭(うつぼ)テニスセンターで、大坂なおみさん姉妹は父親からテニスの練習を受けるようになりました。
先述のようにフランソワさんには本格的なテニス経験はなかったので、元シングル男子・世界ランク1位のアガシやサンプラスの本やビデオを買って独学でなおみさんに指導していました。
そして、近くにテニスのできるコートがない時は、
家の中のふすまを外し、部屋と部屋の間に立ててネット代わりとして、家の中で娘たちとテニスをしていたそうです。
そして間もなく、大坂一家はアメリカへの移住を決断します。
大坂家族がアメリカに移住したのは2001年のことで、
父親の仕事や子育ての環境を考慮しての決断だったとのこと。
幼少期のなおみさんは、
父親が学生時代を過ごしたニューヨーク州ロングアイランドのエルモントで6年を過ごし、
私立のアルデン・テラス小学校に通いながら、
全米オープンの会場でもあるナショナル・テニス・センターなどで、姉のまりさんと、毎日6時間近く練習する日々を送っていました。
この頃のなおみさんは、父親や母親、そして、姉のまりさんにテニスでいつも負けていて、
「テニスは楽しくなかった」
のだそう。
なおみさんが小学校を卒業後の2006年、
家族は、よりテニスに集中できる環境を求め、アメリカのテニスの聖地、フロリダ州に移り住みます。
住まいは、近郊に名門のテニス・アカデミーのあるフロリダ州ボカ・ラトンで、
なおみさんは、中学校と高校は、公立のブロワード・バーチャル・スクールを卒業しています。
この学校は、バーチャル=オンラインで授業を受けることができるシステムで、
なおみさん姉妹は、日中は公営のテニスコートで練習を重ね、夜に勉強をする毎日だったそうです。
なおみさんは学業も優秀で、2年飛び級で高校を卒業することが出来たそうです。
そして、大坂なおみさんは2013年の15歳の時にプロに転向します。
その1年前の14歳の時には、
「人生で一番うれしい勝利」
である姉から初めてテニスで勝つことができたのだそう。
2013年当時の大坂なおみさんのランキングは1022位。
小さな大会で2度準優勝をしますが、スポンサー契約は0で、
移動のための飛行機やホテル、遠征先の食事代は両親が支えてくれていました。
当時の大坂なおみさんは、携帯電話も持っていなかったそうで、
欲しいものとして「携帯電話」と告げたなおみさんに母親の環さんは、
「優勝して、賞金で買いなさい」と言い返したのでした。
そんな大坂なおみさんを一躍有名にしたのが、
2014年に出場したアメリカの大会(WTA)でした。
ランキングと経験を考えれば勝てるはずの無い相手にフルセットで勝利し、
その時のサーブのスピードが時速193キロを記録し、
「大番狂わせ」と、「セリーナ・ウィリアムズに匹敵するパワー」を保持していることを世に知らしめたのでした。
そんな大坂なおみさんがそれまでにどんな練習をしてきたかというと、
ずっと父親のフランソワさんがコーチで、
父親の考えから、ジュニアの大会には出場せず、
常に目上の選手と戦うことで実力をつけてきたのでした。
同年、フロリダのプロワールドテニスアカデミーに招かれて、
初めて専門的なトレーニングを始めることになりました。
その後の快進撃はテレビで報じられている通りです。
大坂なおみさんの父親のフランソワさんは、若い頃はバスケやアメフトの選手だったそうで、母親の環さんも、北海道出身で、スピードスケートの選手だったそうで、
元々、スポーツに親しみのある両親のもとで、自然にテニスに打ち込む環境が出来ていたようですね。
でも、父親のフランソワさんが、テニスを娘たちに薦めなければ、
もっと言えば、テニスを教え始めたものの、
素人だったため、途中であきらめてしまっていたら、
今の大坂なおみさんはいなかったかもしれません。
親から過剰に期待されるのも問題となるケースもありますが、
大坂なおみさんに関しては、父親、母親の苦労と期待に応え、今の姿があるのでしょう。
なおみさんの父親は生まれ故郷のハイチで、映画監督もするなど、
好きなことをやっている印象があります。
なおみさんの天然キャラは、父親譲りなのかもしれないですね。
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