天才を育てた女房のあらすじと原作モデルの岡潔(天才数学者)はどんな人?ロケ地はどこかな

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天海祐希さん主演のドラマ「天才を育てた女房」が放送されるので、ドラマのあらすじと原作モデルとなった天才数学者の岡潔さん、妻の岡みちさん、その家族や子供がどんな人であるのか調べてみました。ドラマのロケ地は埼玉の埼玉県の近代文化遺産となっている情緒あふれる酒造でした。

ドラマ「天才を育てた女房」の原作モデルはどんな人?

ドラマ「天才を育てた女房」の原作は実話で、モデルとなったのは、大阪生まれ和歌山育ちの数学者の岡潔(おかきよし)さんと妻の岡みちさん夫婦で実在の人物です。

岡潔さんは、1901年生まれの世界的な数学者、理学博士(京都大学)で、文化勲章(1960年)、勲一等瑞宝章(1973年)、従三位(1978年)を叙された人物で、岡潔さんの偉業として有名なのが、数学で難解として知られる多変数複素関数論(たへんすうふくそかんすうろん)の分野で世界中の数学者が解けずに未解決であったハルトークスの逆問題など3つの大問題をたった1人で解決したことでした。

その独創的な発想にヨーロッパの数学者たちは、「オカ・キヨシ」を1人の人物ではなく、日本の複数の数学者の集団ではないかと疑ったほどだったとのこと。

これを聞いて思い出したのが、最近、なにかと話題の仮想通貨のビットコイン。このビットコインの中核となるブロックチェーンの技術を2009年に論文で公開したのが「サトシ・ナカモト」と名乗る人物なのですが、「サトシ・ナカモト」については、日本人ではないのではないか、海外の複数からなるチームではないかと言われています。もしかしたら、「サトシ・ナカモト」は、「オカ・キヨシ」をオマージュして名づけられたのかもしれないですね。

話を岡潔さんに戻しますが、岡潔さんは天才故、その言動は一般人からは理解されないことも多く、奇行の変人としても知られた人物でした。

いつも数学のことを考えている岡潔さんは、何をしていても、アイデアが浮かぶといきなりしゃがみ込んで、周りにあるペンと紙の代わりになるものを探し、難解な数式を書き出して計算を始めたのだそうです。

それってまるで東野圭吾の小説で福山雅治さんが主演を務めたドラマ「ガリレオ」の湯川学教授ですね。ピンとひらめいたとたん、周りにあるもので数式を書きなぐっていましたが、岡潔さんはそれを正に地で行く実在の人物だったとのこと。

まだそれだけなら変わった人ですんだのかもしれませんが、数学の問題解決に没頭するあまり、岡潔さんは神経を衰弱したり精神病を患ってしまったこともあったとのこと。

そんな岡潔さんを信じて支えてきたのが、妻の岡みちさんでした。

ドラマ「天才を育てた女房」あらすじ

「私が、きよっさんのことを守ったげる!
私だけが、きよっさんのことを信じてあげる!」

1901年~1923年(明治34年~大正12年)岡潔の幼少時代

岡潔さんは1901年(明治34年)4月19日、大阪市東区田島町(現在の中央区)で生まれました(戸籍上では3月19日)。

父親の岡寛治さんが予備役陸軍少尉で、召集され勤務していた大阪の地で誕生しましたが、その後、父親の出征(日露戦争)にともない祖父母のいる実家の和歌山県伊都郡紀見村に引き揚げてきました。

中学3年の2学期(1918年)に脚気になって和歌山県粉河中学の寄宿舎から一時帰郷した際、自宅にあった父親の書籍の数学者クリフォードの「数理釈義」を読み、クリフォードの定理を知ることで数学の持つ魅力にハマっていくことになりました。

第三高等学校卒業後、1922年、京都帝国大学物理学部物理学科に入学し、2年からは数学科に転科します。

1924年(大正13年)岡潔と妻、小山みちとの出会い

岡潔さんと妻となるみち(旧姓・小山みち)さんとの出会いは1924年(大正13年)の夏のことでした。
小山みちさんは、姉のみよしさんの嫁ぎ先である大阪・日本橋にある北村眼科で働いていました。

ちゃぶ台の上に広げたたくさんの見合い写真をながめながら「みんな普通すぎておもしろくないわ」とつぶやく小山みち。
「結婚は普通が一番やで」と言い聞かせる姉のみよし。
「そうかて刺激があらへん人と一緒になったらつまらん」とみちはぼやきます。

北村眼科には将棋の神様と呼ばれる将棋師の阪田三吉名人が目を悪くした晩年に治療のため通っていましたが、そういった人を旦那にしたら大変や、と阪田名人を見ながら話す姉のみよし。

「みっちゃんに普通の結婚を進めてもむりや。みっちゃんは新しもん好き、珍しもん好きの変わり者やからな~」と阪田三吉。

「みっちゃん、普通を外れた時から人生の苦労ははじまるんやで」と義兄の北村純一郎。

今後のみちの人生を予言するかのような会話が続く中、みちは眼科で切れていた薬を買いに出かけます。

薬屋での用事を済ませて店を出ると、一雨来そうな天気となっていました。

そこで、みちが見たのは、雷が地上に落ちるのではなく逆さまに空に上る現象でした。
そして、偶然、岡潔も、その現象を、みちの近くで見ていたのでした。

「あんたも見たのか」「ありえへん」とみちに話しかける岡潔。

これは現在では「ブルージェット現象」として認識される発光現象なのですが、当時はまだ知られていませんでした。

「すごいもん見たわ!なんや嬉しくなってきた」「またや!」と喜ぶみちに対し、
「ダメや!理屈にあわんこと喜ぶな」と岡潔。

「雷は地面に向かって落ちるものや」と目の前で起こっている現象を認めない岡潔に対し、
「雷さんが逆立ちして太鼓たたきはったんと違います」とみち。

「雷さんみたいなものおるか、おらんもんは逆立ちもせん」と言う岡潔に、
みちは「あんた悲しい人やな。無いもんもあるように考えるから楽しいねんで

岡潔の心にその言葉が留まりました。

でも、次の雷が鳴った際に岡潔はみちに怖くて抱きつき、変態呼ばわれされることに。

みちが帰って逃げ込んだ北村眼科に岡潔が迫ります。

と、「あれ、潔じゃないか?」と義兄の北村純一郎。

なんと岡潔は義兄の北村純一郎の甥っ子で、北村眼科の自宅にしばらく居候することになったのでした。

小山みちは、岡潔と同じ屋根の下で暮らすことになりました。

居候先でも絶えず数学に向かっている岡潔が気になる様子の小山みちですが、姉に岡潔に興味を持ったのか聞かれて「まさか、あんな普通や無い人」と答えて、かつて「普通の人はおもしろくない」と言っていたことを思い出し沈黙します。

岡潔は普通から一番遠い人間でした。
普通ではないけど頭は良く、京都帝国大学を卒業後は4月から同大学理学部の講師への就任が決まっていました。

岡潔の京都帝国大学のエピソード

岡潔は同級生の秋月康夫と京都帝国大学の理学部講師、木下則雅の一変数の講義を受けていましたが、ノートに書いているのは他変数関数についてでした。

「木下先生、一変数関数では説明がついても高次元領域ではそうなるとは限りません」と岡潔。

「一変数で分かることは、高次元領域でも同様であると決められている」と木下講師。

岡潔「それはおかしい。それは誰か確かめたんですか?」
「高次元ではその領域独自の理論が存在するかもしれない。他変数複素関数ならそれが証明できるかもしれません」

「そんなものは存在しない。それは君の思い込みだ」と取り合わない木下講師。

「先生、無いものもあるて考えて検証してみる、それが学問いうもんやないですか」と返す岡潔。

侮辱されたと感じた木下講師は岡潔とそれに賛同した秋月康夫に出ていけと命じます。

「無いもんもあると考える」との小山みちの言葉は、岡潔がいつも思っていたことを言語化してくれて妙に嬉しかったと秋月に語る岡潔。

秋月は「そこから導かれる答えは1つ。ありえへん共通体験は、男と女の距離縮める」、岡潔に小山みちに惚れたんだと諭します。

1925年(大正14年)岡潔と小山みちの結婚

怖い借金取りのお兄さんたちに詰め寄られている友達を助けにきた小山みち。
友達は祖父の遺産が庭のどこかに隠されているのでそれで返すといいますが、場所がどこであるかわかりません。
出合わした岡潔が数学を使って見事、遺産の隠されている場所を見つけて一件落着します。

見つけ方の数式を説明されてもさっぱり理解のできないみちでしたが、「数学って探し物もみつかる便利なものなんやね」と興味を示します。

岡潔は、イタリアのフィボナッチが発見した「5、8、13、21、34・・」との直前の2つの数の和が次の数となる数列を見つけた後で、花びらの数が大体、5枚、8枚、13枚、21枚、34枚となったことに気付いたということをみちに話します。

花にも数学がある。花だけじゃなく、水の動き、湧き上がる雲、風の流れ、世の中は数式で表せることで満ちていて、みちささんの声や手のぬくもりも数学が隠されていて、この宇宙も誰かが設計したのではないか、僕はその謎が知りたい、と岡潔は夢をみちに語ります。だけども数学理論は穴だらけの葉っぱのようでまだまだ繋がっていないと続けます。

それが分かると何か役に立つことでもあるのかと尋ねるみちに、「わからへん、すみれはすみれと言うことや」と岡潔。
すみれは何の役に立つかは考えていない。すみれはただすみれのように咲けばいいのであって、そのことによってどんな影響があるのかなんてすみれにはあずかり知らないことと話す岡潔。

けったいなことを言う男と思うものの、小山みちはどんどんと岡潔に惹かれていきました。
翌年の1925年(大正14年)3月、小山みちと岡潔は結婚します。

岡潔の変人エピソード

1925年3月に京都帝国大学を卒業した岡潔は予定通り、4月から同大学の講師となりました。
講師としての出勤に際し、スーツ姿の岡潔のネクタイを締めるみち。
岡潔はネクタイは、交感神経が締まって頭がまわらなくなるのでいやだとすね、ネクタイを外してしまいます。
そして、革靴は靴底が固くて頭に響くので考えがまとまらないのでいやだと、古い長靴を履くのでした。
それでも仕方が無いと見送るみちでしたが、
大学に向かうはずの岡潔は、玄関の床にひらめいた数式を書きなぐっていたのでした。

岡潔の京都帝国大学講師のエピソード

京都帝国大学での岡潔の講義には、1949年に日本で初めてノーベル賞を受章した湯川秀樹や1965年にノーベル物理学賞を受章した朝永振一郎がいましたが、一変数複素関数の講義であるにも関わらず、ひらめいた岡潔は黒板に多変数複素関数の数式を書いていたのでした。「いつのまに・・・」

それから4年後の1929年(昭和4年)、講師になって4年になるにも関わらず、学生からはいい加減な講義と苦情がでたり、1本も論文を出していないことを木下教授から岡潔は問いただされます。

いい加減ではなく未来に進む講義をしている、と岡潔。
木下教授の講義は古くて、高次元領域に存在する問題を解決するには一変数関数だけやっていてはダメと逆に諭します。
論文については、論文を書くに値する理論が見つかっていないと提出を拒否します。

木下教授からは妄想を追いかけてばかりで、このままでは学位はあげられないと、京大をクビになります。

1929年~1932年(昭和4年~昭和7年)フランス留学時代

1929年(昭和4年)岡潔はフランス・パリへの留学を決意し、単身で旅たちます。

同年12月3日、みちの父親の玄松が逝去します。
玄松はで岡潔との結婚を反対していましたが、亡くなる前に「これであの男を立派にさせや」とお金をみちに渡します。

父親の残してくれたお金で、みちは翌年1930年(昭和5年)2月、岡潔を追ってパリにきました。

岡潔は、パリのソルボンヌ大学で多変数複素関数の世界的権威であるガストン・ジュリア教授の講義を受けていました。同じ講義にはフランスの数学者アンリ・カルタンもいました。

日本にいた時は、自分だけが新しいことをやっていると思っていた岡潔ですが、フランスでは自分のずっと先を既に行っていることを知ります。

意気消沈している岡潔に抱きつく妻のみち。
戸惑う岡潔に、これも日本では絶対できへんことやろと話すみち。
きよっさんならきっとできる、絶対できる、と励まします。

当時の世界の数学会は多変数複素関数論に於ける三大問題に突き当たっていて、多くの数学者がその難問に頭を悩ませ挑んでは砕け散っていました。岡潔もその中の1人でした。

パリでのとある日、岡潔はハルトークスの逆問題の解決の糸口を発想し、その後、その理論の構築に1年を費やし1931年(昭和6年)論文にまとめ上げました。

他変数複素関数の三大問題の解決を目指す岡潔はパリに残り、後1~2年で解決すると張り切りますが、同年9月には満州事変が起こり、長きに渡る戦争の時代がやってきました。

戦争が始まること、そして、みちが妊娠3ヶ月であることがわかり、2人は日本に帰国することになりました。

1932年(昭和7年)フランス帰国後、広島時代

日本に帰国した岡潔ですが、京都帝国大学の木下教授には、パリでまとめた論文は理解できないと提出を拒否。
木下教授は、京都帝国大学に岡潔の居場所はないが、広島に講師の空きがあると広島行きを促します。
岡潔は単身で広島にわたり、広島文理科大学助教授に就任します。

そして、同年7月21日には長女が誕生します。
名前は岡潔が斉藤茂吉の句「菅の根の長き春日を書も読まず 絵をかき居れば眠けくもなし」から取り、「すがね」と名付けます。春の長い1日を絵をかいて穏やかに過ごす、そんな伸びやかな成長を願った名前だとのこと。

フランス時代の岡潔の生活費は、父親の寛治が仕送りをしていましたが、息子、潔の才能に期待して金銭的援助を惜しまなかった寛治は、10万円もの借金を追っていることが判明しますが、勉強の邪魔はしたくないと潔には伝えないようにみちに口止めします。

出産後、みちさんと赤ちゃんは岡潔の住む広島に移り、3人での生活が始まりました。

生活は苦しく、みちはパリ時代の服を質屋に売りお金を作っていましたがそれでも足りません。
みちは秋月に泣きつき、数学の本を出したい出版社を探し原稿料500円の仕事を見つけてきてくれましたが、岡潔は、自分の数学ではない、研究以外のことに時間を使いたくないと断ってしまいます。

岡潔とはもう暮らしていけない、とたんかをきるみちでしたが、
1936年2月21日には長男が誕生します。長男の名前は煕哉(ひろや)と名付けました。

苦しい生活に姉のみよしは離婚を考えるよう勧めます。

悩むみちに、天才将棋師の阪田三吉を支えた妻、コユウは、貧乏は底無しでまだまだ続くと話します。離婚をしようと思わなかったのかと問われたコユウは、三吉は自分にもコユウにも嘘だけはつかなかったと答えます。「将棋だけしたい。たったそれだけの人なんや」と。「活かすも殺すもあんたしだいや」とお金を援助してくれたコユウでした。

その頃、自宅では次々と落ちる木の葉を見ていた岡潔は上空移行の原理の糸口を発想しました。
フランスで論文を仕上げて以来、止まっていた難問の三大問題の1つめの答えが岡潔の中でひらめいたのでした。
論文が完成すれば、岡潔の考えが多くの人に認めてもらえると期待を膨らますみちでした。

それから4か月後、論文は完成し、1936年(昭和11年)6月、広島で開かれた日本数学学会で上空移行の原理の論文が発表されました。

ところが、京都大学の木下則雅教授をはじめ、岡潔の論文を理解できる者は誰もいませんでした。
「君の説は妄想にすぎない」と言われてしまいます。

数学に没頭し極度の睡眠不足にみまわれた岡潔は神経を衰弱して入院してしまいます。

みちは木下教授にかけあいますが、論文はまだ理論ではなく完成していない途中経過であると説明します。
「途中じゃダメなんですか、読み解く努力はしてもらえなへんのですか、きよっさんの理論、価値が無いと決めつけてませんか、きっと価値があるはずや、きよっさんがみつけたってあんだけ喜んでた論文や、絶対、価値があるはずや」とみちは言い切って部屋を後にします。

病室では寝ていなければいけない岡潔は、また床に数式を書きなぐっていました。
「僕にはまだまだやらなあかんことがある。時間がない、解き明かさな」と計算に戻る岡潔。

その潔の姿に、みちはここを出ようと決意します。

「誰もわからんでもええ、
私が、きよっさんのことを守ったげる!
私だけが、きよっさんのことを信じ続けてあげる!」

1938年(昭和13年)和歌山県紀見峠時代

岡家族は、広島を離れ、潔の父親の寛治を頼って和歌山県紀見峠に向かいました。
温かく迎えてくれた寛治氏でしたが、翌年1939年(昭和14年)潔の父親の岡寛治氏は逝去します。
寛治氏の葬式の夜、岡潔は三大問題を突破する方法がひらめいたのでした。

それから1年半を費やし、岡潔の論文が形になりました。
1941年8月13日には次女のさおりさんが誕生し、子供が3人に増えました。

みちと潔で論文に興味を示してくれる出版社を片っ端から探し、掲載に辿り着くことができました。
論文の一部をフランスのガストン・ジュリア先生の元にも郵送しました。

ところが、世の中は太平洋戦争へと突入していきます。
数学のみならず、すべての学問は進歩の満ちを閉ざされ、戦火の中にうずもれてしまいました。

1945年(昭和20年)11月戦後

そして戦後となりました。
なんとか生き延びることのできた岡家族でしたが、食料の配給が無くなったことで生活はさらに苦しくなっていきました。

事態を察した岡潔は、仕事を得るため京都帝国大学の木下教授に会いにいき頭を下げますが、「君のする仕事はありません」と断られてしまいます。

家族が食べていくためにと大切な数学の本を売ろうとする岡潔に、「きよっさんはそんなことせんでええ」と告げるみち。
「きよっさんは数学だけやってればいい」「きよっさんは頭の中にあるもんを形にする責任がある」「それが叶えば私らの人生にも意味が生まれる」とみちは潔に数学のことだけを考えるように諭します。

そんな中、フランスの数学者アンリ・カルタンから手紙が届きます。
手紙には論文を読んだこと、論文の価値を理解してくれたことが書かれてありました。

そして岡潔は、これまでの理論を更に進め、不定域イデアルの概念を打ち立てました。

1948年(昭和23年)京都大学

1948年(昭和23年)みちは、岡潔が完成させた論文を読んでもらうため、京都大学の木下教授を訪ねました。
その時、京都大学では湯川秀樹の渡米壮行会が行われていました。

木下教授を探し岡潔の新しい論文を手渡そうとしますが、後にしてくれと取り合ってくれません。

みちは意を決し壇上に立ったのでした。

フランスの数学会の巨匠となったアンリ・カルタンには岡潔の数学が通じたこと。
でもその論文は、岡潔が戦前に書いた途中のもので、今日、持ってきた論文は理論の大半が完成したものであることを告げ、

「今の岡に必要なのは、互いを理解し、楽器が響き合うように高め合う仲間なのです。どうか岡の理論を誰か見てやってください。」と泪ながらに語りました。

木下教授は、「残念ながらその論文、私には理解できません」とまだ認めてくれないのかと思いきや、渡米する湯川秀樹に託すことを薦めます。湯川秀樹はアメリカのプリンストン高等研究所に行くため、研究所のコネクションで論文をカルタンにも届けてもらえるのではないかと言うのです。

1955年(昭和30年)和歌山県紀見峠

岡家族の暮らす和歌山県紀見峠に赤月康夫が、2人の外国人を連れてやってきました。

湯川秀樹に託した岡潔の論文は、プリンストン高等研究所の角谷静夫に渡り、角谷からシカゴ大学の教授を務めるフランスの数学者アンドレ・ヴェイユに渡り、フランスのリール大学の教授となったアンリ・カルタンの元へ届けらるという奇跡のリレーを果たします。三大問題を解決した論文に感銘したアンリ・カルタンが岡潔を訪ねてきたのでした。

そして、1960年(昭和35年)11月3日、岡潔は文化勲章を受章したのでした。

ドラマ「天才を育てた女房」ロケ地は埼玉の丸山酒造

ドラマ「天才を育てた女房」のロケ地は、埼玉県深谷市にある「丸山酒造」です。
「丸山酒造」はこれまでにも2016年NHKBSドラマ「隠れ菊」や、2015年NHKドラマ「ちゃんぽんたべたか」のロケ地として使用されたことがあるそうです。

万延元年1860年に築造された酒蔵全体が埼玉県の近代文化遺産となっています(平成6年)。

■丸山酒造の住所【地図】

〒366-0009 埼玉県深谷市横瀬1323

pauls293さん(@masamipaulyamada)がシェアした投稿

古い趣のある建物が印象的で、昭和の時代にトリップしたかのようですね。

酒蔵は江戸時代初期に北武蔵の大豪農、荻野七郎兵衛がスタートしたものだそうで、明治16年に荻野七郎兵衛から借り受けた丸山酒造がそれまでの熊谷市から深谷市に移ってきて、その後、荻野家から酒造を買取り現在に至っているとのことです。

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