【しくじり先生】長江健次が不義理を全告白!萩本欽一、さんま、鶴瓶との絶縁の真相を明かす

テレビ

長江健次さんが、2016年8月8日の「しくじり先生」に出演して、萩本欽一さんへの不義理から欽ちゃんと30年間、絶縁していたことを告白しました。長江健次さんは、萩本欽一さんだけでなく、明石家さんまさん、笑福亭鶴瓶さんにも不義理をしてしまったことも明かしました。

欽ドンの普通の子「フツオ」として大ブレイクしたイモ欽トリオの長江健次さんが、不義理の挙句、嫁、子供がいるのにもかかわらず、仕事ゼロ、収入ゼロと干されてしまった理由や、スノーボードと出会い、人生を大きく変えることができたことをテレビで初告白しました。

長江健次、いちびりから「欽ドン!」のフツオ役で国民的スターへ

長江健次さんは、1964年7月17日大阪府生まれの現在、52歳です。

子供のころの長江健次さんは、関西で俗に言う「いちびり(お調子者、目立ちたがり屋、調子に乗る)」で、中学時代は、素人参加番組に出演してはモノマネや女装をする目立ちたがり屋の少年で、中学卒業後は吉本興業に入ろうと思っていました。

大阪の中学生の中では「俺が一番オモロインや!」と信じて疑わない少年でした。

そんな中学3年生の時、ある素人番組に参加していた時、審査員の席から、笑いをとっていた明石家さんまさんに出会います。

自分と同じくらい面白い人がいる!と思った長江健次さんは、明石家さんまさんに「芸能界に入りたいんです!弟子入りしたいんです!」と伝えたところ、さんまさんは「長江、高校ぐらいはでとけや」と言われ、さんまさんの言葉に従い、長江健次さんは高校に進学することにしました。

そんな長江健次さんに人生の転機が訪れたのは、高校1年生の時でした。

当時、全国ネットで大人気だった「銀ドン!」がリニューアルするとして、「良い子 悪い子 普通の子」のオーディションの誘いを受けたのでした。

長江健次さんは、東京でオーディションを受けますが、「不合格」となりました。

萩本欽一さんはリアル感を追求するタイプのため、「俺オモロイでしょ」感が全身からにじみ出ている長江健次さんのことを一瞬で見抜き、長江健次さんは一言発しただけで不合格になったんだと思ったそうです。

ところが、大阪に帰る準備をしていた長江健次さんはスタッフに呼び止められ、再び、萩本欽一さんの前に連れていかれ、「やっぱり君でいいや」と、なんと合格となったのでした。

どうやら、当初、「良い子 悪い子 普通の子」は男性2名、女性1名で合格者が決定していたのですが、企画が急きょ変わり男性3名で行こうとなり、慌てたスタッフが誰か残っていないかと探していた時、芸能人にサインをもらおうとさっさと帰らずにウロウロしていた長江健次さんを見つけたというのです。

つまり、長江健次さんは、その場に残っていただけで、受かったのだそうです。

萩本欽一さんは、こういった『運』を大事にする方だそうで、「欽ちゃんのどこまでやるの!?」の見栄晴さんは、じゃんけんで勝ったため合格となり、「欽ドン!良い子 悪い子 普通の子 おまけの子」の柳葉敏郎さんは、自宅に電話した時に出たので合格となったのだそうです。

長江健次さんは、オーディションに合格した翌年の1981年、高校2年生の17歳の時に「欽ドン!良い子 悪い子 普通の子」のフツオ役でデビューします。

萩本欽一さん司会の公開バラエティ番組「欽ドン!良い子 悪い子 普通の子」は、最高視聴率は38.8%を記録し、長江健次さんは、その愛くるしい弟キャラで、瞬く間にお茶の間の人気者となっていきました。

更に、萩本欽一さんプロデュースの元、ヨシオ役の山口良一さん(当時26歳)、ワルオ役の西山浩司さん(当時21位歳)とイモ欽トリオを結成し、デビュー曲の「ハイスクールララバイ」は、TBS「ザ・ベストテン」で8週連続1位の快挙を遂げ、100万枚を超える大ヒットとなりました。

長江健次さんはそのイモ欽トリオのメインボーカルを務め国民的スターになっていきました。

そんな長江健次さんのしくじりの数字が「30年」なのですが、この30年はなんと生みの親である萩本欽一さんと絶縁していた期間でした。

これには「しくじり先生」に生徒役で出演していた関根勤さんも「初めて聞いたよ!」とびっくりしていました。

長江健次さんと萩本欽一さんの間に何があったのでしょうか。

長江健次 自分が一番面白いと勘違い行動とは

「欽ドン!」の1回目の収録前日、12時間に及ぶリハーサルで、長江健次さんは本番でミスしないようにとコントの台詞を徹底的に覚えて収録本番に臨みました。

ところが、公開衆力の本番で萩本欽一さんはアドリブで台詞を変えてきたのでした。

(えええーー・・・)となった長江健次さんに、萩本欽一さんは、

「フツオ、台詞忘れたの?後ろで見て来なさい」と言ったのでした。

会場は大爆笑となりました。

全ては萩本欽一さんの狙いだったのです。

素人である長江健次さんが素でいる姿が一番、ウケることを分かっていた萩本欽一さんの演出だったのでした。

本来であれば、ありがたい演出と思うべきところ、若かった長江健次さんは、「欽のやろう、ハメやがったな、覚えてやがれ!」と怒りの心境になったのでした。

笑いを取りたかった長江健次さんは、恥をかかされたと思ってしまったのでした。

勘違いをしていた長江健次さんは、こうなったら笑いをとってやろうと、次の出番に大胆な反撃に出ます。

長江健次さんは、アドリブで萩本欽一さんのハゲヅラをひっぱたいたのでした。

会場は爆笑となり、裏に戻って長江健次さんはガッツポーズをしたそうですが、当然のことながら、本番終了後に萩本欽一さんに呼ばれます。

萩本欽一さんは開口一番、「フツオ どうするの?」と聞いてきたんだそうです。

長江健次さんはもちろん謝ったのですが、萩本欽一さんが言いたいのは別のことでした。

長江健次さんの役は、3段落ちのフリ役のフツオでした。

そんなフツオが大ウケしたのは良いけれど、来週はもっと凄いことをしないとウケない、フツオの後にはヨシオと落ち役のワルオが控えているのに、フツオがそれをやってどうするの?と延々と説明となったんだそうです。

萩本欽一さんからの説明を受けても、若かった長江健次さんは理解をすることが出来ませんでした。

「東京のヤツ、分かってへんわ」
「俺一人でやったほうがオオロイやん」
「イモ欽トリオでは、本来の俺の良さでてないやん」

そう思うようになっていきました。

笑いのフリしか出来ないフツオ役にも不満を持つようになっていきました。

気持ちが抑えられなくなった長江健次さんは、高校3年の夏、萩本欽一さんにこう言ったのでした。

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長江健次が萩本欽一さんにした「不義理」とは?

長江健次さんは高校2年生の4月から「欽ドン!」に出演していましたが、高校3年生の夏に、萩本欽一さんにこう言いました。

「大学受験をしたいので、欽ドン!を辞めさせてください」

萩本欽一さんは、「大学受験があるのならしょうがない。頑張れよ!」と受け入れてくれました。

当時、人気者だった長江健次さんは、「欽ドン!」の卒業の記者会見も開いてもらい、「フツオの引退」として大きなニュースとなりました。

ところが、

この裏で、長江健次さんの元にはこっそり仕事のオファーが来ていたのでした。

それは、関西ローカルで笑福亭鶴瓶さんと司会をする番組「突然ガバチョ」でした。

長江健次さんが19歳の時のことでした。

当時の笑福亭鶴瓶さんは関西では番組をいくつか持ち有名でしたが、関東の方では知られておらず、知名度としては「欽ドン」に出ていた長江健次さんの方が上だったため、二人で司会をすることになりました。

記者会見からわずか2か月後、長江健次さんは、萩本欽一さんに黙って、地元大阪で芸能活動を再開し、レギュラー番組を始めたのでした。

つまり、長江健次さんはお世話になった萩本欽一さんに「嘘をつく」という不義理をおかしてしまったのでした。

この不義理は業界を巡り、長江健次さんは30年に渡り、萩本欽一さんと絶縁することになったのでした。

萩本欽一さんだけでなく、お世話になったテレビ局にも嘘をつく不義理をおかした長江健次さんは、当時、フジテレビを出禁状態となりました。

ところが、大阪で次々と仕事が舞い込んでいた長江健次さんは、その出禁の事実さえ知らなかったそうです。

長江健次 萩本欽一への不義理をよそに大阪では仕事が舞い込み続ける

笑福亭鶴瓶さんとダブル司会となった「突然ガバチョ」の視聴率は、当時、大人気だった同時間帯の他局の番組「プロポーズ大作戦」を追い抜かし、長江健次さんの元にはどんどんと仕事が舞い込んできました。

「突然ガバチョ」の半年後には、明石家さんまさんとのラジオ番組「ヤングタウン」のオファーがきました。

明石家さんまさんは、長江健次さんが萩本欽一さんへ不義理をしたことをラジオでいじってくれましたが、後ろめたい気持ちもある長江健次さんは困って黙ることしかできなかったそうです。

当時、明石家さんまさんは仕事だけでなく、プライベートでも長江健次さんのことを気にかけてくれて、長江さんは、さんまさんの草野球チーム「スティング」にいれてもらったり、さんまさんのマンションに遊びに行ったり、ゴルフにも連れて行ってもらったんだそうです。

明石家さんまさんも『運』についてよく口にする人だったそうで、萩本欽一さんと似ているところがあるなと思ったそうです。

大阪での仕事は2年でレギュラー番組7本を抱える売れっ子となりました。

天狗の長江健次の勘違い行動とは

天狗となった長江健次さんは、様々な勘違い行動をするようになります。

「欽ドン時代を黒歴史にした」

欽ドン時代の話は一切しないスタンスに変え、イモ欽トリオの話はNG、ハイスクールララバイを歌うのもNGとしました。

フツオのことを聞かれるのに嫌気がさしていたり、ソロでも歌を出していた長江健次さんは、昔のことではなく、今に注目してもらいたかったのでした。

「仕事仲間に不満を持つ」

明石家さんまさんから一人立ちを勧められ、ヤングタウンの日曜日をMr.オクレさんと喜多嶋舞さんとの3人で任されることとなった長江健次さんですが、メンバーに不満を持っていたと言います。

その他にも、台本を読まない、カンペ通りにやらない、収録が始まるぎりぎりに現場に入る(本番の5~10分前にスタジオに入る明石家さんまさんがカッコいいと真似をしていたんだそうです)などなど。

こんな態度をとる長江健次さんは、スタッフに愛されることもなく、放送内容にもそんな態度が現れていたのでしょう、任されたラジオ番組は2年で終了となってしまいました。

それでも当時の天狗の長江健次さんは、「所詮、大阪ローカルやんけ」と、自分の非を認めることはしませんでした。

当時、長江健次さんはまだ23~24歳だったそうですが、こんな矛盾した考えを持っていたのは、結局、自分が一番でいられる場所に逃げているだけだったのでした。

中学校時代は一番の人気者だった長江健次さんですが、欽ちゃんファミリーに入ったことで、自分が一番でいられない事に居心地の悪さを感じ、結局、自分が偉そうにできる場所に逃げ続けていました。

そして、長江健次さんは萩本欽一さんへの不義理だけでなく、明石家さんまさん、笑福亭鶴瓶さんにも「不義理」をおかしていってしまいました。

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長江健次 明石家さんま、笑福亭鶴瓶にも不義理をおかす

ラジオ番組「ヤングタウン」は終了となってしまいましたが、まだテレビで活躍していた長江健次さんは、明石家さんまさん、笑福亭鶴瓶さんに対して、こう思うようになっていました。

「俺の方がオモロイやん!」

明石家さんまさんにイジッってもらうことは感謝すべきことであるのに、当時、ドラマにも出始めた長江健次さんは、役者気取りで、明石家さんまさんにイジッてもらうことに居心地の悪さを感じていました。

そんな気持ちは長江健次さんの顔や態度に出る様になり、長江健次さんは、明石家さんまさんや笑福亭鶴瓶さんからの食事やゴルフの誘いを嘘をついて断るようになりました。

勘違いしていた長江健次さんは、さんまさんや鶴瓶さんは会いたかったら向こうから連絡がくるだろうと本気で思っていたのだそうです。

お世話になった明石家さんまさん、笑福亭鶴瓶さんに自ら距離を置くという不義理をおかした結果、長江健次さんは、それから十数年間、二人とは顔を合わすことも無く疎遠となってしまったのでした。

当然、仕事はどんどんと無くなっていきました。

30歳となった長江健次さんは、テレビのレギュラーはわずか1本だけになってしまいました。

時間に余裕が出来るようになった長江健次さんは、人生を大きく変えるものに出会うことになります。

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長江健次 スノーボードに出会い裏方を知ることに

長江健次さんの人生を大きく変えるきっかけとなったもの、それは「スノーボード」でした。

当時、スノーボードはまだ日本でそれほど知られておらず、長江健次さんは上位入賞とまではいきませんでしたが、全日本スノーボード選手権大会に5年連続で出場するなど、地道に実績を積んでいきました。

当時はスノーボードを出来るタレントも少なかったため、長江さんの元にはスノボ関係の番組のオファーが来たり、スノーボードの普及活動として、様々な連盟の仕事をするようになりました。

そんな功績が認められ、2006年にはトリノオリンピックでのスノーボードの日本代表のサポートとして、コーチの名目で現地に赴き、主にメディア対応を担当しました。

2006年のトリノオリンピックのスノーボードでは、7位に入賞した藤森由香さんの他、成田童夢さんや今井メロさんなどがいました。

この時、人生で初めて裏方を経験した長江健次さんは、これまでの自分が裏方にどれだけ失礼だったかを実感したのでした。

裏方の支えがないと、表の人達は輝けません。

昔の長江健次さんは、「表に出ている自分が一番偉い」と勘違いして、裏方の人たちへのリスペクトが全くありませんでした。

自分の愚かさに気づいた長江健次さんはこんな思いが芽生えます。

「欽ちゃんに会いにいきたい」

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長江健次 絶縁中の萩本欽一に会いに行く

「欽ちゃんに会いに行きたい」と思った長江健次さんは、2003年、萩本欽一さんが座長を務める明治座の舞台に顔を出しました。

行ったとしても楽屋に入ることは許されないかなと思っていた長江さんでしたが、舞台後、楽屋に入った長江さんは萩本欽一さんと二人っきりで30分にわかり話をすることができたんだそうです。

二人はたわいもない話をしたそうですが、長江さん曰く、萩本欽一さんには骨の一本一本まで見抜かれているんじゃないかと思うほどの眼力があるといいます。

その後、萩本欽一さんが24時間マラソンに出た時も長江健次さんはゴールに顔を出すなど、少しずつ萩本欽一さんとの距離を縮めていきましたが、心を開くまでには至りませんでした。

2014年、萩本欽一さんは芸能人生最後の舞台を開催することになりました。

お世話になった方の最後の舞台ですから、行かないといけないと思った長江健次さんは、この時、楽屋に入ったときに、心を開くまで絶対に帰らないと思いずっとい続けたんだそうです。

そんな中、萩本欽一さんは順番にみんなを食事に誘っていきました。山口良一さん、風見しんごさんetc.

自分には声はかからないだろうと思っていた長江さんでしたが、萩本欽一さんは最後にこう言ったのでした。

「フツオは空いてるの?」

長江さんは、嬉しくて、即座に「空います!」と答えました。

萩本欽一さんが当時、よく食事をしていた武蔵小山の中華料理屋さんに誘ってもらうことが出来ました。

お店に先に着いた長江健次さんは、立って待っていたところ、風見しんごさんと、山口良一さんがこう言ってくれました。

「健次は久しぶりだから、大将の隣に行け。僕らはいつも会っているし」と。

長江健次さんは萩本欽一さんの隣に座り、3時間びっちり、たわいもない話ですが一緒の時を過ごすことができました。

最後に萩本さんを車で見送る時となったとき、頭を下げて欽ちゃんを見送った後、長江さんに対して、風見しんごさんと山口良一さんが「良かったな、健次!」と声をかけてくれたんだそうです。

感極まった長江健次さんは、涙が止まらなく溢れてきました。

最低なことをした最低な自分に対し、萩本欽一さんの周りの風見しんごさんや山口良一さんの優しさや、食事会に入れてくれて隣に座らせてくれたスタッフの方々の優しさに触れ、長江健次さんはその後、どう帰ってきたかもわからないくらい放心状態だったんだそうです。

長江健次さんの心の中で、30年経ってやっと、肩の力をふっと均してもらったそうです。

それは自分一人ではなく、周りの山口さん、風見さん、スタッフの方々、マネージャーの方々のおかげであり、この場を与えてくれた周りの方々への感謝や、萩本欽一さんの心の広さを感じるに、見送りのため下げた頭を上げることが出来なかったんだそうです。

泣いているのを見られるのが恥ずかしいという思いもあったそうですが、この時には「ありのままの自分を見せよう」と思える自分になっていたと言います。

これが、萩本欽一さんと長江健次さんの絶縁騒動の全てです、と。

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長江健次 十数年疎遠だった明石家さんまと笑福亭鶴瓶との現在とは

まずは明石家さんまさん。

十数年連絡をしていなかった明石家さんまさんの舞台のチケットを自ら購入して見に行ったそうです。

観客席で見ていた長江さんに、客弄りのコーナーで明石家さんまさんが近付いてきて、「世の中で一番怖いものは何やと」尋ねました。

どう答えたらいいか困っていた長江さんの耳元でさんまさんは、「欽ちゃんって言え」とささやいたんだそうです。

一瞬迷ったものの、さんまさんの言った通りに「欽ちゃん」と答えたところ、会場は大爆笑となりました。

その日はさんまさんの誕生日だったので、長江さんは、アディダスのLサイズのTシャツを渡したところ、さんまさん第一声が、

「もうえらい痩せてしまったしSやー、あー、でもええで、寝間着にするわ」と言ってくれたことが長江さんは、久しぶりにそんなたわいもない会話をさんまさんとすることができて、とても嬉しかったんだそうです。

そのままではあかんと思った長江さんは、同じTシャツのSサイズも購入して、次の日に舞台は見ないものの、スタッフに渡して帰ってきました。

やっと、さんまさんの所にもこんな風に行けるようになって、感謝してもしきれいない、と。

そして、笑福亭鶴瓶さん。

笑福亭鶴瓶さんの落語会にも赴いたところ、鶴瓶さんは不義理をした長江さんに対し、こう言ってくれたんだそうです。

「おまえ、気づいただけで十分やて。気づかんまますんでく奴の方が多いねんから」

そして、落語が終わった後に食事に誘ってくれたんだそうです。

食事の場で、「(自分のこと)嫌いやったでしょ、最低やったでしょ」と言った長江さんに対し、鶴瓶さんは、

「全然、今からでも健次、遅くないから、お前の気持ちをどんどん言え」
「お前が今、その気持ちになってんやったら、誰も怒れへんてって」
「気づいたことが凄いって」

と言ってくれたんだそうです。

長江健次さんは52歳となって、芸能界で35年間生きてきて、こんな素晴らしい方々と知ってこれただけでも凄いことなのに、その縁をこともあろうか自分で切ってしまい、本来なら会ってもらえなくてもおかしくないのに、その方々がまた会ってくれる、こんな感謝することは無いと言います。

最後、長江健次さんは、

萩本欽一さん、明石家さんまさん、笑福亭鶴瓶さん、そして他の先輩の方からも、

もう一遍は、「面白い」じゃなくて、

「お前、ええ男になったな」「ええ人間になったな」

と思われる人間になっていきたいと〆ました。

そして、

関根勤さんから「今、中学の時、一番自分が面白かったと思います?」との質問に対し、長江さんは、

全く思わないですし、面白いとか、歌でも上手いとかは、あくまでも見てくださった方が判断してくれることで、1人の表現者よりも、1人の人間として素晴らしくならないと、人の前で何かを表現するとか、人に聞いてもらうのは出来ないな、と思いました。と。

それでも人間だからしくじることがあるかもしれないが、その時、どう思えるかが大事だと今は思っています、とのことでした。

長江健次の教訓

お世話になった人を裏切ってしまっても、ちゃんと反省したら現実から逃げず、勇気を出して会いに行きましょう。一生、後悔しないために。

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