膝を血だらけにして3区の今田麻里絵選手にタスキを繋いだ飯田怜選手の姿には、Twitter上では「感動して涙が止まらない」「よくぞつないだ」のエールがある一方で、「なんで止めないの?」「選手生命は大丈夫なの?」など監督や運営に対する疑問の声があがっています。
飯田怜選手に起こったアクシデントの詳細と、四つんばいで進まざるを得なかった怪我の理由や背景を調べてみました。
監督は止めなかったのではなく、そこには、選手の意向と運営側の判断がありました。棄権のルールについても見ていきたいと思います。
プリンセス駅伝で、四つん這いで這って次の3区の選手に襷を繋いだ岩谷産業2区の飯田怜選手の動画がこちらになります。
出かける準備しながらテレビを見てたら📺どんな状況😳
#プリンセス駅伝 pic.twitter.com/0WxxyzVz9S
— 店長510 禁煙治療 (@goto_tenchodesu) October 21, 2018
ないた#プリンセス駅伝 pic.twitter.com/YzIvhxKyB5
— アカ(猫)テン (@aka20100322) 2018年10月21日
タスキをつなぐ瞬間😭
岩谷産業は棄権することなくゴールできました!お疲れ様! pic.twitter.com/FECyRhhJas— 店長510 禁煙治療 (@goto_tenchodesu) 2018年10月21日
名前:飯田 怜(いいだ れい)
年齢:19歳
身長:165㎝
出身地:熊本県
出身高校:ルーテル学院高校
所属:岩谷産業
自己記録:1500m 4分34秒84(2017.06)、3000m 9分35秒69(2018.05)
飯田怜選手は、熊本出身で、陸上を始めたのは中学校からで、高校は、熊本の駅伝名門校のルーテル学院高校に進みます。
高校では寮生活を送り練習を積み、卒業後、2018年に岩谷産業に入社したルーキー選手です。
飯田怜選手が所属する岩谷産業の女子駅伝チームは創部2年目で、今年のプリセンス駅伝が初出場となりました。
岩谷産業の女子駅伝チームを指揮する監督は、アテネ五輪マラソンで金メダルを獲得した野口みずき選手を育てた廣瀬永和(ひろせひさかず)監督です。
こちらが廣瀬永和監督の顔画像になります。
プリンセス駅伝は、女子駅伝日本一を決定する「クイーンズ駅伝」の出場権を賭けた全国統一の予選会で、参加の27チーム中、上位14チームが来月11月25日(日)に宮城県で開催される「クイーンズ駅伝2018」の出場権を獲得することができます。
飯田怜選手が所属する岩谷産業は、昨年創部されたばかりで選手が少なく、実質的に駅伝を走れる選手は6人しかいなかったことをTBSテレビ陸上部が伝えています。
【#プリンセス駅伝 21日(日)ひる11:50】
《プリンセス駅伝2018を面白く見る視点③》
初出場の埼玉医科大学グループと岩谷産業
ぎりぎりの6人でも、積極的な走りが期待できる理由とは?
続きは… https://t.co/bsTPawndK8
TEXT by 寺田達朗 @rikujouterada
【 #TBS 系列生中継】 pic.twitter.com/dPNCJguiCW— TBSテレビ陸上 (@tbsrikujou) October 19, 2018
ただでさえ選手が薄い中、エース格の高野選手が先月9月末に事故に遭い戦線離脱し、プリンセス駅伝は補欠ゼロでの出場でした。
飯田怜選手は、夏場に長く故障をしていたため、走り込みができなかったものの、持ち味のスピードを活かした練習を行ってきたので、良い状態で臨めば勝負はできると考えていたとのこと。
飯田怜選手が担当した2区の距離は3.6㎞と全区間の中では一番短い距離なので、飯田選手の持ち味を活かせるスピード勝負な区間でした。
ところが、残り300mとなった地点で飯田怜選手は転倒をしてしまいます。
岩谷産業 飯田選手は転倒でどこか痛めたようです。#プリンセス駅伝 pic.twitter.com/2MWaEC8zXU
— きーやん (@kiwa_s) October 21, 2018
近くで観戦していた人によると、転倒した飯田怜選手は立ち上がって走り出そうとしますが、右足がぐにゃっとなってしまい再び転倒し、また起き上がって歩き出そうとしますが、転倒をし、を2、3回繰り返した後、四つん這いで進みだしたのでした。
起き上がれないのも当然で、飯田怜選手はその後の診断で、右足の脛骨を骨折したことが分かりました。全治3~4か月の重傷です。
飯田怜選手は残りの300mを四つん這いで進み続け、次の3区の今田麻里絵選手に襷を繋ぎました。
3区の今田麻里絵選手は、四つん這いで近付いてくる飯田怜選手の姿を涙を流しながら待ち続け、襷を受け取りました。
飯田怜選手が繋いだ襷は、3区のスタート時点では27チーム中27位となってしまいましたが、繰り上げスタートになることなく、岩谷産業は最終的に21位でゴールしました。
飯田怜選手が転倒した時、監督がどこにいたかというと、
駅伝は1人あたりの走る距離が短いことから、監督らが車で競走(伴走)することを禁止していて、選手の近くに控えていることができず、各チームの指導者が集まるゴール地点の監督室でテレビのライブ中継を見て確認していました。
廣瀬監督は、飯田怜選手の姿が映らなくなり、その後、四つん這いで進んでいる姿を見て、大会側に途中棄権を申し入れたのだそうです。
ところが、運営側の審判に伝わった時点では、飯田怜選手は中継点まであと20mとなっていたため、運営側の判断で続行させたと言われています。
岩谷産業の発表では、廣瀬監督からの棄権要請は、現場のチーム関係者から飯田怜選手に2回伝えられていましたが、飯田怜選手は「あと少しだから走らせてほしい」と棄権することを受け入れなかったのだそうです。
現場では審判員が飯田怜選手の後ろについていました。
プリンセス駅伝。2区で波乱💦
初出場の岩谷産業にアクシデント。でもタスキはつながりました‼️
がんばれ😆 pic.twitter.com/67BFRJuGnk— K (@WAZUKANA_EGAO) October 21, 2018
「あと70(メートル)!」「行かしてやりたい」
そう話す審判員の声が映像に残っていて、審判員も棄権ではなく続けることを推していたようです。
現行のルールでの棄権についての箇所は以下になります。
四つん這いの飯田怜選手を見て、廣瀬永和監督は棄権を指示しますが、飯田怜選手自身と、それを見守る現場の審判員の判断で、四つん這いで進むことを停めなかったということになります。
1年間、この日のために練習を重ね、チームを支えてくれている人達のためにも自ら棄権をする選択は選手にはないのでしょうが、怪我を悪化させる可能性もありますので、選手を守るためにも客観的なルールを定める必要がありそうです。
今年の「プリンセス駅伝2018」では、次の第3区でもアクシデントがありました。
名門の三井住友海上の3区を任されたエースの岡本春美選手(20歳)がぶっちぎりの1位で走っていた9キロ過ぎに脱水症状からかコースを間違えるほどフラフラとなり、意識朦朧の中でも走り続けますが、残り3キロの地点で倒れて棄権となってしまいました。
えっ!!!はるみちゃん!!#プリセス駅伝 #岡本春美#脱水症 pic.twitter.com/PPCSbfzo1O
— 76歳OL (@caw534021) 2018年10月21日
岡本春美選手は、名門三井住友海上の復活を託されたエースと報じられていた選手で、解説の増田明美さんは、秋としては暑い日となった中、飛ばし過ぎて無理したことが影響したのではとコメントをしていました。
岡本春美選手は、脳性麻痺を患う姉の介護のために、群馬の実家に住みながら練習を続けていたそうで、チームのため、家族のため、今日の試合は負けられない戦いだったのでしょう。
岡本春美選手は救急車で運ばれおり回復の様子が待たれます。
岡本春美選手のケースでは運営関係者が水のペットボトルを渡す光景がありましたが、大会ルールとして「正常な走行ができなくなった競技者を一時的に介護するために、競技者の体に触れるのは助力とみなさない。」と定められています。
選手に触ったら即、失格、というルールは現在では改正されています。
プリンセス駅伝🎽👸
岩谷産業
第2中継所
これが襷の重さ!(◎_◎;)
走れなくても歩けなくても、這ってでも血だらけになっても……凄い…… pic.twitter.com/xWJQqiN32t— satori (@satoshi2517) 2018年10月21日
這ってゴールを目指すって
ゴール直前2,3メートルならわかるけど
何百メートルもあるのに・・・ヒザずるむけやんなぜチームや監督は止めないのか
こんなもん美談にしたらアカンで!#プリンセス駅伝 #岩谷産業 pic.twitter.com/cmBHdiGkuW
— サンダンス (@The_Sundance_K) 2018年10月21日
膝血だらけだらけの中、なんとかタスキをつなぐシーン…まじで泣ける#プリンセス駅伝 #岩谷産業 pic.twitter.com/ROYvtlmpW1
— こーちゃん@長田™ (@kusaukoshika) 2018年10月21日
#プリンセス駅伝 #岩谷産業 選手が四つん這いで膝がズルズル剥けて血だらけになって、次の走者にタスキを繋ぐ姿は異常じゃないの?数メートルならともかく何十〜何百メートルもあって、何故、監督や運営は止めない?この姿を素晴らしいと美談に評する感覚はおかしいよ。駅伝は何かの拷問ですか?
— 名前はまだない。 (@_mada_nai) 2018年10月21日
]]>岩谷産業の選手が這いながらタスキを渡した。
見ていてその姿に感動したけど・・・・
ルールはどうなんだろう?
監督は止めるべきでは無かったのか?
根性論は果たして正しいのか?
今後の選手生命は?
賛否両論あると思う。 #プリンセス駅伝
— しがなくないワタシ。 (@siganaiwatasi) 2018年10月21日
黒後愛選手のWikiプロフィールを、父親や姉などの家族や出身中学や高校の時のエピソードを踏まえてご紹介しています。
【火の鳥】本日6/14(水)は、2017年度全日本女子チーム登録メンバー #黒後愛 選手の誕生日です。アイ選手、おめでとうございます! #火の鳥NIPPON #バレーボール🏐 #HappyBirthday🎂 pic.twitter.com/Lj4P3cpLms
— 公益財団法人日本バレーボール協会 (@JVA_Volleyball) 2017年6月14日
名前:黒後愛(くろごあい)
生年月日:1998年6月14日生まれ
年齢:20歳
出身地:栃木県宇都宮市
中学校:宇都宮市立若松原中学校
高校:下北沢成徳高校
所属:東レ・アローズ
身長:180㎝
体重:70㎏
血液型:B型
ポジション:WS(ウィングスパイカー)
指高:237㎝
最高到達点:306㎝
インスタグラム:@kurogoo
ツイッター:@kuro06141998
黒後愛さんは、今年2018年に日本代表デビューを果たしたばかりのルーキーにして全日本のエースで、身長180㎝から繰り出される弾丸スパイクが半端ない海外からも大注目されている選手です。
黒後愛選手の家族はバレーボール一家です。
まず父親は、黒後洋(くろごひろし)さん(53歳)。
大学の親友、名将ふたりとともに…。色々な意味で自分の小ささに気付かされる。感謝…🤗 pic.twitter.com/U7EMMK2HME
— 黒後洋 (@kuro965164) 2017年6月1日
こちらの画像の真ん中の男性ですね。
父親の洋さんは、1990年に筑波大学で体育学の博士課程を終了していますが、専門はバレーボールに関するゲーム分析や指導法だそうで、バレーボールに関する学術論文や著書もあります。
現在は宇都宮大学教育学部で保健体育の教授として、そして、課外活動では宇都宮大学男女バレーボール部の監督を務めていて、過去には宇都宮大学バレー部を関東の1部リーグに昇格させた経歴を持ちます。
母親は黒後裕子さんで、情報があまりないのですが、春高バレーに出場するバレーボール選手だったとのことです。
お姉さんは、愛さんの5歳年上の黒後彩乃さん(25歳)で、バレーボールの選手で、中学時代に全国大会出場、高校は國學院栃木高校から春高バレーに出場し、進学した宇都宮大学では主将兼ケースを務めた選手でした。
【大学バレー ダイジェスト】
今回躍進の宇都宮大
黒後彩乃選手#7(國學院栃木ー宇都宮大) pic.twitter.com/MoPrVjnVKN— TOKIO (@TOKIO_V) 2014年5月25日
愛さんは、父親、母親、姉の彩乃さんがバレーボールをする一家に生まれ、「(バレーボールを)やることは運命だった」と本人が話すように小学校3年生の8歳の時にバレーボールを始めます。
小学生のころの愛さんは身長が低かったそうで、当時はレシーバーを務めていましたが、中学生となり身長が急に伸びたことでアタッカーへ転身します。
そんな黒後愛さんは、中学時代から伝説を持っている人物でした。
中学は地元の宇都宮市立若松原中学校に進学しますが、
中学2年生当時、バレーボール部員が5人に減ってしまい、このままでは大会に出場できなくなってしまいました。
そこで、黒後愛さんは、帰宅部の同級生を勧誘しチームを6名としたのでした。
帰宅部の同級生はバレーボールはほぼできないため、
試合中、その子はボールの来ないコートの端っこに配置し、自分が点を取りまくる作戦に出たのでした。
そういった事情から、中学時代の愛さんは、すべてのポジションを務めるオールラウンダーとなります。
そして、結成わずか2ヶ月の6人のチームは、なんと栃木県大会に優勝し、県内無双の伝説の最強チームとなったのでした。
黒後愛選手は、2年生時に全日本中学選抜に選出され、3年では、JOC杯の決勝トーナメント2回戦で敗退するも、優秀選手賞に輝いています。
中学卒業後、黒後愛選手は高校は、日本代表主将を務めた木村沙織らを輩出したバレーボールの名門・下北沢成徳高校に進学します。
当時の下北沢成徳高校は結果を出せずにおり、黒後愛選手は1年生で唯一のレギュラーとして活躍を始め、エースとして期待されるようになります。
1年生エースでの春高バレーの結果はベスト8。
リベンジを誓う2年生エースとなった黒後愛選手は、見事、下北沢成徳高校を優勝に導き、MVPに輝きます。
黒後愛辛かった苦しかった思いを春高にぶつけリベンジを果たし3年ぶりの頂点女王の座に輝きました! pic.twitter.com/STNuzfCCgv
— 高校バレー情報next春高バレー2018 (@harukouseisyun) 2016年1月10日
翌年2017年、下北沢成徳高校は、春高バレーで大会2連覇を果たし、黒後愛選手は2年連続MVPに輝きました。
日本女子代表の国内合宿が再スタート🏐アジア大会は4位。その悔しさが糧になっているようです❗️ルーキーの黒後愛選手も「もう絶対に負けたくない」と練習に励んでいました🔥人一倍負けず嫌いな黒後選手、疲れていても「頑張ります!」と最後には笑顔も✨みんなで応援しましょう📣 pic.twitter.com/OhCyzqlKSc
— フジテレビ☆バレーボール (@fujitv_volley1) 2018年9月7日
高校卒業後の2017年春、黒後愛選手は、V・プレミアリーグの東レ・アローズに入団したことを発表しました。2017/2018シーズンでの活躍がみとめられ、最優秀新人賞を獲得しています。
2017年3月には全日本メンバーに初めて登録となり、9月に開催されたFIVAワールドグランドチャンピオンズカップ2017の最終14名の選手に選ばれます。
そして、2018年に日本代表デビューを果たすルーキーながら身長180㎝からの弾丸スパイクを武器に日本のエースの座を任されます。
中田久美監督は、黒後愛選手について、
「キラッと光る中からでてくるもの、それを彼女は持っている」
と語っています。
そんな黒後愛選手の座右の銘は、
「笑顔・笑う門には福来る」。
「いろんな人を元気と笑顔にしたい」
と語る黒後愛選手のこれからの活躍が楽しみです!
女子バレー見てるんだけど
黒後愛ちゃんかわいすぎて🤤
太ももも最高です🤤🤤 pic.twitter.com/oZjHIvy1ba— ずんずん🍤 (@RIRIACHAN15) 2018年9月30日
黒後愛さんの可愛さカッコよさを、誰かとずっと話して居たい、誰かいないのか! pic.twitter.com/AiTKvoDoJx
— 高橋 竜登 (@49oWBtUbCfH7UZR) 2018年10月1日
まーじみんなもっと黒後愛先輩を知ってくれ頼む pic.twitter.com/19eMDDtS9R
— お湯 (@out3bic) 2018年10月1日
わたし下北時代から
黒後愛ちゃんの笑顔好きでして…
きゃっきゃ言いながら
バレー見てる♡
もう元気なったぁぁぁぁ!しゃ。 pic.twitter.com/UKKIZtRBxT— 欅坂▲ゆりあ▽ (@keyaki_yurinaaa) 2018年9月30日
あいちゃんがんばれ💪💪
このときからずーーーっとずーーーっとおーえんしてます👍👍#黒後愛 #世界バレー pic.twitter.com/CqSLScoBpz— かな (@Kana_6514) 2018年9月29日
]]>#世界バレー#黒後愛
日本VSオランダ
今日も応援します!
頑張れ! pic.twitter.com/2YL2VIEGeQ— 喜多🐙 (@x5JXQhmgvYh4hsI) 2018年9月30日
現在も日本女子が世界で優勝するにはどうしたらよいかを考え続ける中田久美監督ですが、プライベートではどのような人物なのでしょうか。
結婚をしているのであれば、相手の旦那や子供はいるのでしょうか。
激やせが噂されていますが、病気ということはないのでしょうか。
中田久美監督の「てめえらコノヤロー」事件とは、
2004年5月16日に放送されたフジテレビ「すぽると」で起こりました。
その日、日本女子は、19時から始まった最終戦のロシアに敗れたものの、
2004年アテネオリンピックのバレーボール世界最終予選をリーグ1位で通過して、2大会ぶりにオリンピック出場の切符を獲得し、その興奮が冷めやらぬ中、23時55分から始まった「すぽると」に祝!アテネ出場として緊急生出演をしていました。
試合後、すでに勝利の祝杯をあげていた選手たちは、お酒が入っていて全員キャーキャーと大はしゃぎのハイテンションで緊張感はまるで0。
解説として出演していた中田久美さんはテレビ向けに笑顔を見せていましたが、
この日のロシア戦の試合のVTR映像に切り替わったところで、
「てめえらコノヤロー!!」
と選手たちに一喝した声がマイクで拾われて、テレビで流れてしまったのでした。
VTR明けの選手たちは、全員真顔、ある選手は中田久美さんの様子を窺っていたり、笑顔が引きつっている選手もいました。
中田久美さん曰く、
オリンピックでメダルを目指している選手達が、これぐらいのことでここまではしゃいじゃいけないでしょ、と、マイクはオフになっていると思い、あのタイミングで喝を入れたのだそうです。
放送事故を起こしてしまった中田久美さんは、もうフジテレビには呼ばれなくなることを覚悟したそうなのですが、なんと反対に「ご指導ありがとうございます」と協会関係者から感謝されたのだそうです。
そんな中田久美監督は、若い頃から怖いイメージがありました。
中田久美監督は、1965年9月3日生まれの現在、53歳です。
身長176㎝、体重62㎏、血液型A型。
東京都練馬区出身で、名前の由来は9月3日生まれで「くみ」なんだとか。
バレーボールを始めたのは中学(練馬区立練馬東中学校)に入学してからですが、2年生の時に、バレーボールのエリート育成のための人材発掘をしていた山田重雄氏のテストを受け、その才能を買われ、し英才バレー塾の寮に入りバレーの才能を開花させ、中学3年生で全日本代表に選出されるまでになります。
当時の中田久美選手はエースアタッカーでしたが、山田重雄氏から告げられたポジションは、チームの司令塔となるセッターでした。
18歳で出演したテレビ番組で、中田久美選手は、セッターはやりたくなかったけど、あのままアタッカーを続けていたら平凡な選手になっていたと思う、と当時を振り返りました。
高校は通信制で、山田重雄氏のいる日立に進み、在籍1年でセッターとしてスタメンを獲得します。
1983年からは日本代表でもスタメンセッターとなり1984年のロスオリンピックで18歳で銅メダルを獲得します。
オリンピックのメダルはこの時だけになりますが、表彰式の中田久美さんの顔はちっとも嬉しそうではありませんでした。
それもそのはず、中田久美さんは銅メダルだったのが悔しくて悔しくて仕方がなかったのだそうです。
1986年の世界選手権では主将を務めますが、同年11月に選手生命に関わる重傷となる右膝前十字じん帯を断裂し、リハビリで奇跡の復活を遂げ、ソウル(1988年)、バルセロナ(1992年)とオリンピック出場を果たしますが、メダルには手は届かきませんでした。
中田久美監督は、バルセロナ・オリンピック(1992年)後に現役を引退し、翌年の1993年に結婚をしています。
結婚相手の旦那の名前は、林隆夫氏です。
林隆夫氏についての情報はあまりないのですが、父親が歴史学者の林亮勝氏(隆夫は長男)。
林隆夫氏は、高校時代に野球部で、国学院久我山高校の選手として、1979年の第51回の選抜高校野球大会に出場しています。
1979年に高校生だったことから、生まれた年は1961年~1963年頃で、中田久美監督の2~4歳年上で、現在の年齢は、55歳から57歳でしょうか。
2人の間に子供はおらず、1996年には離婚となり、以来、中田久美監督は独身を貫いています。
離婚の理由は明らかになっていませんが、中田久美監督は家庭に納まるタイプの女性では無かったのでしょう。
1995年には現役復帰をしますが、1997年以降は所属していた日立を退社し、バレーボールの指導者や各地での講演、解説者やタレントとして活動の場を広げていきます。
現在の中田久美監督の姿について、激やせしたのではないか、その理由は病気なのではとの心配の声が上がっています。
中田久美監督の激やせと聞いて想い出すのは、現役引退後にモデルに挑戦していた時のことです。
こちらは1998年に発売された写真集の中田久美監督の画像になります。
中田久美監督は完璧主義者だそうで、モデルの仕事に挑戦のだから、徹底的に体重管理をして、現役時代よりも痩せ、歩き方や服の見せ方も1から学んだといいます。
何かに集中した時はストイックにのめり込むタイプのように思います。
こちらは2007年当時、スポーツキャスターとしての顔画像になりますが、
テレビ映りを気にしてか、この時もしゅっとしたスリムな顔になっていますよね。
この後、2008年から、中田久美監督は、本格的に指導者の道に進むことになります。
当時、女子バレーの世界最高峰だったイタリア・セリエAに渡りコーチ修行に励んだのでした。
日本バレー界では史上初の挑戦だったそうですが、それ以来、中田久美監督は、どうしたら日本は勝つのか、そういう見方で行動をしてきたといいます。
こちらはイタリアから帰国後、
2011年に久光製薬スプリングスのコーチ→2012年監督へと就任した頃の中田久美監督になります。
ちょっとふっくらしたイメージがありますが、イタリアの食事でそうなったのかもしれないですね。
久光製薬での中田久美監督は、
2012年~2016年の全日本バレーボール選手権大会(皇后杯)で5連覇を果たし、2013年には、V・プレミアリーグ、黒鷲旗、皇后杯に優勝し、女子史上初の3冠を達成しています。
そして、2016年10月25日、日本バレーボール協会理事会で、満場一致で、バレーボール女子日本代表の監督に選出されました。
伝説のチームを作るため「心を鬼」にし、数々の改革に乗り出す中田久美監督。
全日本の練習は、これまでの2部制から3部制となり、朝は7時から練習が始まります。
極限まで選手たちを追い詰める中田久美監督の指導は、
選手だけでなく、中田久美監督自身の身をも削っていることでしょう。
激やせは、それだけ中田久美監督がストイックに監督業に没頭しているからこそと推測します。
中田久美監督率いる全日本女子の活躍を楽しみにしたいと思います。
]]>山本KID徳郁さんが、ガンとの闘病を告白してから約1ヶ月足らず、
「元気になって、帰ってきたい」
との思いは叶わず、41歳の早すぎる死となりました。
山本KID徳郁さんの死因の種類が何ガンかについては、
消化器系であったことが報じられていましたが、
その消化器系の癌とは胃がんであったことが明らかとなりました。
癌のステージは末期のステージ4。
病状が悪化した今年2月頃から、嫁と子供とグアムに移り、
末期ガンの病院に通っていたとのこと。
癌の原因については、
母親の遺伝や全身タトゥーが説がありますが、どうなのでしょうか?
これまでの山本KID徳郁さんの名勝負やプライベートを追いながら振り返っていきます。
9月18日、山本KID徳郁さんが死去したことを所属しているジム「KRAZY BEE」が方式ツイッターとインスタグラムで公表しました。
山本KID徳郁さんは、1977年3月15日生まれの享年41歳6ヶ月。
身長163㎝、公表されていた体重は61㎏。
身長や体重の違いがパワーに大きく影響する格闘技の世界で、
小柄ながらも溢れる闘志と優れたレスリング技術、
つくり込まれた肉体で、格闘界のカリスマに昇りつめました。
こちらは2006年の山本KID徳郁さんの伝説的な秒殺KOシーンの動画です。
そしてこちらは、2004年12月31日に行われた
魔裟斗とのカリスマ対決の動画になります。
山本KID徳郁さんは、プライベートでは、
2回の結婚歴があります。
山本KID徳郁さんの嫁として良く知られているのは、
2005年に結婚したモデルのMALIAさん。
MALIAさんといえば、
昨年4度目の結婚をしたことで話題となりましたが、
山本KID徳郁さんとの結婚は2度目で、
2005年1月に男の子(MALIAさんにとっては次男)、
2006年11月には女の子が生まれますが、
2009年8月に2人は離婚をしています。
2人の子供はMALIAさんが引き取りました。
山本KID徳郁さんの現在の嫁は、ゆいさん。
結婚の時期は非公開とのことですが、
2014年11月25日、一般人のゆいさんとの間に、
娘の千ちゃんが生まれたことを公表し、
再婚していたことが明らかとなりました。
チャーミングな千ちゃんと、
一般人とは思えない美人のゆいさんは
山本KID徳郁さんのインスタに度々、登場していました。
そんな、幸せな生活を送っていたと思われた山本KID徳郁さんでしたが、
自身のインスタで癌で闘病中であることを告白したのは、
2018年8月26日のことでした。
山本KID徳郁さんは、今から約1ヶ月前の8月26日(日)、
自身のインスタで癌と闘病中であることを告白していましたが、
何ガンかの種類については明かしていませんでした。
山本KID徳郁さんが全身にタトゥーを入れていることから、
皮膚がんや肝臓がんではとの憶測を呼びましたが、
週刊FLASHが、格闘技関係者の話しとして、
消化器系の癌であることを画像とともに報じました。
消化器系の癌と言うと、一般的なものが、
食道がんや胃がん、大腸がんなどになりますが、
その消化器系の癌とは胃がんであったことが明らかとなりました。
グアムでガン闘病中「山本“KID”徳郁」の車椅子写真 | Smart FLASH[光文社週刊誌]スマフラ/スマートフラッシュ https://t.co/vnVRPh6xzK #SmartFLASH #ガン #闘病中 #山本KID徳郁 #山本KID #格闘家
— SmartFLASH (@info_smafla) 2018年8月27日
写真は2018年8月中旬にグアムのレストランで撮られたものです。
今年の2月頃、
山本キッドさんの胃がんの病状が悪化し、
山本キッドさんは嫁のゆいさんと2人の子供とともに日本を離れ、
グアムの末期がんの病院で闘病生活を送っていました。
ガンがわかったのは2年前とのことなので、
2016年8月頃、ということになります。
山本KID徳郁さんの一番下の子供の虎ちゃんは、
2017年8月に誕生していますので、
子供のためにも癌を克服する、との強い気持で、
闘病に挑んでいたのでしょう。
ところが、
画像の中の山本KID徳郁さんの体はやせ細り、
顔もやつれた表情をしています。
山本KID徳郁さんの訃報に際し、
生前親交のあった関取の石浦さんが、
スポニチの取材に対し、
山本KID徳郁さんから、がん闘病を発表する前に、
ステージ4であることを知らされていたことを明かしています。
ステージ4の中、病状の悪化を受けて、
山本KID徳郁さんは、家族とともに日本を離れ、
グアムで最期の時を過ごしていたのでした。
8月中旬に撮られたという写真では、
山本KID徳郁さんは自身では歩けないため、
車椅子で移動する生活となっていました。
こちらは山本KID徳郁さんが5月にインスタグラムに投稿した全身画像です。
ファンからは「痩せたのでは?」
との心配のコメントが寄せられていましたが、
この時はまだ立って歩くことはできていたので、
この後、休息にガンが進行していったということなのでしょう。
山本KID徳郁さんの山本家は、
父親の山本郁栄さん、
長女の山本美憂さん、
長男のキッドさん、
次女の山本聖子さん、
とレスリング一家ですが、
母親の山本憲子さんもレスリングに関わりがあり、
女性で初めてレスリングの審判となった人でした。
その山本憲子さんは、1999年、白血病で亡くなっています。
白血病は三大血液がんの1つと言われるもので、
それが、山本KID徳郁さんの癌は母親の遺伝ではとの憶測が上がった理由でした。
よく「うちは癌家系だから」
という言葉を聞いたりしますよね。
結論から言ってしまうと、
遺伝性の癌は、癌全体の5%程度なのだそうです。
癌化は、なんらかの原因で遺伝情報に狂いが生じ、
それが蓄積することにより起こるとのことなので、
遺伝の影響はあるものの、
全体の割合から比べると少なく、
遺伝的な要因だけでなく、環境要因も関係しているとのことです。
癌に対する環境要因として、
山本KID徳郁さんは全身にタトゥーを入れていることが挙げられます。
タトゥーは入れ墨のインクである異物を体内に入れることで、
肝臓に負担がかかる可能性があり、
肝炎などの感染症のリスクが高いと判断されています。
タトゥーを入れていることからの疾病リスクが高いため、
生命保険へ加入するハードルが高くなることもあるようです。
またタトゥーを入れているとMRI検査を受けることができないと言われていますが、
これは、タトゥーの入れ墨に含まれる酸化鉄などの金属材料が、
MRIの撮影部位にあると、ラジオ波発熱によるやけどの可能性があるからなのだそうです。
MRI検査ができないことは、
癌の発症とは直接の関係ないですが、
MRI検査ができたとしたら、
もしかしたら、山本KID徳郁さんの癌は、
初期の段階で発見できた可能性はあったかもしれないです。
山本KID徳郁さんの癌は発見が難しい肝胆膵系のがんではなく、
定期的な検診を受けていれば、
身体の異常が見つけやすい胃癌だったので、
その思いは尚更です。
結果の話しになってしまいますが、
癌の発見が遅れたため、
発見したときにはかなり進行していたことが推測されます。
そして、がん闘病の告知からわずか1ヶ月弱。
山本KID徳郁さんは永眠されました。
山本KID徳郁さんの死去に際し、
各界から、KIDさんの死を惜しむ声が聞かれています。
KIDさん、早すぎるよー!
お別れも出来ず残念でなりません。
心からご冥福をお祈り致します。— 吉田沙保里 (@sao_sao53) 2018年9月18日
KID選手。
お会いした時に
日本の格闘技盛り上げてよ、君なら行けるよ
と言ってくださいました。
絶対盛り上げます。
ありがとうございました。— 那須川 天心 (@TeppenTenshin) 2018年9月18日
KIDさん日本の格闘技を盛り上げてくれて本当にありがとうございます。
自分より大きい選手を倒していく姿に体の小さかった僕はたくさん勇気貰いました。
これから引き継いでもっと盛り上げていきます。
天国でゆっくり休んでください。
ありがとうございました。 pic.twitter.com/FV8yEYq4mr— 武尊 takeru (@takerusegawa) 2018年9月18日
山本KID徳郁さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
]]>称えられるべき優勝者の大坂なおみ選手へのブーイングが起こった理由はなぜなのでしょうか?表彰式のフル動画で振り返ってみたいと思います。
そして、ブーイングのきっかけとなったセリーナ選手とラモス主審とのやり取りの経緯をまとめてみましたが、謝罪するのはセリーナ選手のほうじゃないかとの思いがふつふつを沸き起こっています。
大坂なおみ選手が優勝した2018年全米オープンテニス・女子シングルの表彰式のフル動画がこちらになります。
表彰式の開会を告げると同時に観客席から聞こえてきたのは歓声ではなく「ブー」という低い音の合唱でした。
式が始まって30秒後、ブーイングの中で視線を落とした大坂なおみ選手は、被っていたサンバイザーで顔を隠し、左手で右の目に溢れた涙をぬぐう仕草をするのでした。
気づいた横にいたセリーナ・ウィリアムズ選手が大坂なおみ選手に近付き肩を抱き慰め、反対の男性も大坂なおみさんに何か言葉をかけています。
このシーンだけを見ると、まるで観客のブーイングは大坂なおみさんだけへ向けたもののように思いますが、実際のところはどうだったのでしょうか。
観客のほとんどが、地元アメリカのテニス界のレジェンドで、出産を経てコートに戻ってきたセリーナに対し、ホームの全米オープンで24回目の優勝をしてもらたい、という期待を持っていただろうと考えた大坂なおみ選手は、ブーイングはセリーナ選手に勝利した自分に向けられたものと捉えてしまったようでした。
でも、大坂なおみ選手の決勝でのプレーは何も恥ずべきことはなく、このブーイングは、むしろ、決勝の試合を台無しにしてしまった審判や大会関係者に向けてのものでした。
現に、この後、5分15秒頃に大坂なおみ選手が優勝者として名前を呼ばれるのですが、観客席からは歓声の嵐が聴こえて来ます。観客が大坂なおみ選手に対して反感を持っていたら、このようなリアクションは無いはずです。
それではブーイングの理由はなんだったのでしょうか。
ブーイングのきっかけとなったのは、第2セットのセリーナ選手と審判のやり取りで、セリーナ選手は審判から3度の罰則を受け、1ポイントと1ゲームのペナルティを課されてしまったのでした。
1.客席のコーチからコーチング(指導)をしたペナルティ(警告のみ)
2.ラケットをコートに叩きつけて壊したことでのペナルティ(1ポイントのペナルティ)
3.審判に対する暴言に対してのペナルティ(1ゲーム)
第1セットを6-2で大坂なおみ選手に取られたセリーナは、第2セットで巻き返しを図ります。
そんな第2セットの第2ゲーム中、セリーナ選手のコーチで客席にいたパトリック・ムラトグルー氏の両手の動作がコーチング(指導)と判定され、カルロス・ラモス主審から警告を受けます。
コーチングは、通常のWTAツアーの試合では認められているものの、格の高いグランドスラム(四大大会)では違反行為となっています。
第2セット1-3となった第5ゲーム、大坂なおみ選手がブレークバックに成功し2-3としたところで、セリーナ選手が怒りのあまり、ラケットをコートに叩きつけて壊してしまいます。
ラケットを壊した行為により、先にコーチングで警告を受けていたセリーナ選手は1ポイントのペナルティを課されてしまいます。
コーチングとの合わせ技でペナルティを課されたと知ったセリーナ選手は、ラモス主審に迫り、「私はコーチングなんて見てないわ。そんなずるなんてしないんだから。私をずる呼ばわりするなんて謝りなさいよ」と猛抗議し、観客もブーイングでセリーナを支持します。
その後、4-3で大坂なおみ選手にリードを許すしてしまったセリーナ選手はコートを入れ替わるチェンジオーバー時にラモス主審にせまり「嘘つき、謝れ」大坂なおみ選手に対してポイントをあげたことを「泥棒」呼ばわりしたのでした。
The US Open final umpire whom Serena Williams called “a thief” has been defended by tennis’ governing body.https://t.co/HicJgOEs7J pic.twitter.com/ZkTArIgyVQ
— BBC Sport (@BBCSport) 2018年9月10日
この暴言を受けて、ラモス主審はペナルティとして1ゲームを大坂なおみ選手に与え、大坂選手は5-3とリードを広げ、優勝まで後1ゲームとなったのでした。
観客からはセリーナ選手を支持する激しいブーイングが続く中、セリーナ選手はプレー再開を拒否して、大会審判の判断を要求します。
セリーナは執拗に審判に抗議し続けた事でペナルティーを課せられ、納得行かず審判に詰め寄り謝罪を求めるが、怒りが収まらず副審達にも訴え続ける。
試合会場はセリーナを応援する大多数のファンからの声援とブーイングの嵐で、大坂なおみちゃんにとっては精神を集中し続けるのは最悪の状況だった… pic.twitter.com/NsS5R9iXcY— MHB@US生活全然慣れる気がしない (@COOLMHB) 2018年9月9日
「これはフェアではない」と声を荒げるセリーナに同情する観客たち。
続く第9試合はセリーナ選手がキープして5-4となりますが、続いての第10ゲーム、大坂なおみ選手はメンタルを崩すことなく、優勝を果たします。
試合後、セリーナ選手のムラトグルーコーチは、コーチングをしていたことを認めています。
セリーナ選手はどうやらそのコーチングは見ていなかったようなので、コーチの行為で選手が違反を受けるのは可哀想、というのはあるようですが、我慢強苦プレーする大坂なおみ選手をどうやっても崩すことが出来ず、そのイライラをホームの観客のブーイングを味方に終始、馬時雑言を浴びせ続けたのは品格とは程遠い姿でした。
試合後の表彰式には通常であれば主審は参加するものなのですが、ラモス主審は試合の内容もあって、表彰式が始まる直前に会場を後にしたのでした。
この審判退場のタイミングが表彰式の始まりと重なり、まるで表彰式自体をブーイングしているように感じられ、会場内の雰囲気は最悪で始まりました。
そして、セリーナ側のファミリーボックスは早々にもぬけの殻になりました。— ざぶすきすきすぎ (@NHW20) 2018年9月9日
主審は警備にエスコートされて立ち去ったとのことなので、どれだけ観客から憎悪の目を向けられていたかが分かります。そんな不穏な空気の中で、表彰式は始まったのでした。
正直言ってセリーナは昔から嫌い。審判への行き過ぎた抗議は何度も見てきた。そして決勝。コーチのハンドサインは露骨だったし、ラケットの壊し方も異常。審判に「盗人」とまで言ってたとは。ここで性差別持ち出されても共感度0。なおみちゃんの憧れの人なのにごめん。https://t.co/8xysXUbrs9
— 雨雲 (@N74580626) 2018年9月9日
中継を見てましたが悪いのは、①コーチング(反則)をしたセリーナのコーチ②主審からの反則宣言に対して必要以上に抗議をして悪態をついたセリーナ③表彰式まで審判に対してブーイングを続けたアメリカの観客のマナーです。
大坂選手がブーイングされたわけじゃなく、ましてや人種差別でもありません。— 赤津さやたかん (@AKT_Japan) 2018年9月9日
セリーナ、ラケット折ってポイントペナルティ受けて審判を「私から点数奪った。泥棒」と泥棒呼ばわりしてゲームペナルティ。
「冗談じゃないわよ、男子選手にはこの程度の事でこんな事しないでしょ!私が女だからでしょ。不公平過ぎ!」と性差別まで持ち出して抗議する様子にガッカリ。#全米オープン— kuri (@mintof7) 2018年9月8日
]]>あの審判は公平だった。
ドイツでボリス・ベッカーも解説でそう伝えたそうです。セリーナが抗議すべき相手は自身のコーチ。伊達さんも解説で仰っていましたが誤解を招くようなジェスチャーだったと。その後のラケット破壊、主審への侮辱発言。許される事ではないと私は思います。— ひなまるこ (@hinamarukosan) 2018年9月9日
大坂なおみさんの母親、環さんは北海道根室市出身で、実家に住む大坂なおみさんの祖父にあたる大坂鉄夫さんが、孫の快挙に際し、自宅前で取材に応じたのですが、その背景に映る庭が凄すぎる、豪邸すぎる、金持ちと話題になっています。
大坂なおみさんの母方の祖父母はどのような人物であるのか、祖父母の名前や豪邸すぎる自宅、仕事や職業について調べてみました。
テニスの全米オープンで初優勝を果たした大坂なおみ選手の祖父・大坂鉄夫さん(73)は自宅前で報道陣の取材に応じました。https://t.co/rGBXygJCyr #nhk_news #全米オープン #大坂なおみ pic.twitter.com/cux5zBHAvX
— NHKニュース (@nhk_news) 2018年9月9日
孫の快挙に笑顔で取材に応じているのは、大坂なおみさんの母方の祖父で名前は大坂鉄夫さん(73歳)。
取材に際し、身だしなみもきちんと整えて、なんだかカメラ慣れしている雰囲気も見せていますよね。
ですが、現れたのは頑丈な門の中から、そして、インタビュー中に映る背景には立派な庭。
どこかの施設で取材を受けているのかと思いきや、自宅だというじゃないですか。
めちゃめちゃ豪邸すぎて、
大坂なおみさんの祖父母って、どんだけ金持ちなんだよ!
やっぱりテニスって金持ちのスポーツなのか、と思ってしまいますよね。
これだけの豪邸に住んでいるのですから、地元根室市の政治家か経営者か、有力者臭がプンプンしますよね。
大坂鉄夫氏は一体、どのような人物なのでしょうか。
大坂なおみさんの母方の祖父母にあたるのが、今回、取材に応じた祖父の大坂鉄夫さん(73歳)と、祖父とともに決勝をテレビ観戦したという、祖母の邦子さん(73歳)です。
大坂なおみさんの母親、環さん(47歳)のご両親ですね。
祖父の大坂鉄夫さんの職業は地元、北海道根室市の根室漁協の組合長とのこと。
北海道根室市は、北海道本島の最東端にあり、主力の産業は水産業になります。
根室の名産物というとやっぱり海産物ですよね。
花咲港にちなんだ花咲ガニが有名で、他にもサンマの水揚げが日本一だったり、あさりや、鮭、鱒、ホタテ貝、ウニなど豊かな海産物で知られています。
そんな根室の主力産業である漁協の組合長というと、山地で言えば、農協のお偉いさん、ってことですよね。
どんだけ地元で有名人なんだろうという感じですよね。
そして、なんと、実家の根室市だけでなく、祖父は北海道の道庁所在地の札幌にも別宅があるっていうじゃないですか。
そして、その札幌の別宅の住所が、孫娘の大坂なおみさんの日本の住所になっているのだそうです。
影ながら孫娘の大坂なおみさんの支援をしてくれているってことですね。
でも、このインタビューの笑顔の裏には、語られていない物語がありました。
大坂なおみさんの父親は、ハイチ出身のアメリカ国籍の黒人のレオナルド・フランソワさんなのですが、祖父の鉄夫さんは、母親の環さんがレオナルドさんと結婚することを認めてくれませんでした。
それでも環さんとレオナルドさんの愛は固く、2人は勘当当然で、北海道の地を離れ、大阪で夫婦生活を始めたのでした。
そうして授かったのが、大坂なおみさんと姉のまりさんでした。
大坂鉄夫さんは、元々、歯舞群島の勇留島出身で、根室市は北海道本島の最東端という立地、しかも今から30年以上前のことですから、周りに外国人がにいるはずもなく、その中でも娘が黒人と結婚する、ということは一家の恥さらしと激怒したのだそうです。
そのあたりの詳しいお話しはこちらでしています。
大坂なおみさんは、テニスは素人同然の父親に教わってきたのですが、そんなやり方も祖父の鉄夫さんからは嘲笑されていたと言います。
インタビューで祖父の鉄夫さんは、
「小さいころから一緒にいたわけではないので
(心の)距離も少しあるんじゃないかな」
と話していますが、その背景には両親の結婚から15年以上絶縁関係にあったのが影響しているようです。
大坂なおみさんが10歳の頃に、孫娘たちを祖父母に合わせたいと、根室の実家を訪れたそうですが、孫娘たちの顔を見ると興味を抱いてくれたようですが、まだまだ認めてくれるには程遠かったとのこと。
根室の実家はお金持ちだったものの、当時は援助はしてもらえなかったようで、
母親の環さんはアメリカでは現地の日系企業に勤めてお金を稼いで、家族を養ってくれたのだそうです。
優勝インタビューで、大阪なおみさんは、「母親は普段は試合を見に来ないから」と笑いを誘っていましたが、プロに転向当初は、スポンサーもおらず、遠征の飛行機代、ホテル代、食事代などは自分持ちですから、母親の環さんは毎日、仕事で、応援に行きたくてもお金はかかるしで、そういった理由から見に来ることは出来なかったとのこと。
根室の有力者のお嬢様だった母親の環さんは、どんだけ苦労したのか、想像すらできません。ホントに凄い。
旦那のレオナルドさんを信じ、娘たちを信じ、
そして、そんな関係が修復を見せ始めたのが、大坂なおみさんがプロのテニス選手として頭角を現した頃からでした。
その苦労や努力を認めざるを得ない結果を環さんやレオナルドさん、そして、大坂なおみさんが出したことで、孫娘を応援したいという気持ちに変わってくれたのじゃないでしょうか。
その後は、なおみ選手が日本に戻る度に大会の応援に駆け付けたり、寿司や焼肉をご馳走したり、鮭好きのなおみ選手に地元根室で水揚げされた紅鮭を焼いて持参したり、と今では、なおみさんの応援団長になっているように見えますね。
今から3年前には、東京で会ったなおみさんにピアスを買って上げたそうで、多分、それが、現在、なおみさんが試合の時にいつも身につけている真珠のピアスのようです。
2018年3月のパリバオープンで大坂なおみ選手が優勝した際は、反対に記念にサインしたハンカチとネクタイをなおみ選手からプレゼントされたことを明かしています。
大坂なおみさんの結果は、彼女だけでなく、ご両親のことを、根室の実家に認めさせる意味も持っているんだと感じました。
全米オープンテニスで優勝後の大坂なおみさんと母親の環さんの15秒の抱擁のシーンには、そんな、これまで家族が抱えてきた複雑な思いや信念がひしひしと伝わってきました。
これからは、もっと笑顔の大坂なおみ選手を、そして、もっと笑顔のなおみ選手の母親の環さんの姿を見ていきたいと思っております。
調べてみると、父親の名前はレオナルド・フランソワ氏で、職業は出身地であるハイチの映画監督ということがわかりました。
大坂なおみさんの父親は、なおみさんが3歳の時から独学でテニスを教え、コーチとして現在の大坂なおみさんを育て上げた人物です。
大坂なおみさんの父親について、出身地や大学などの学歴と経歴、なおみさんへの熱血テニスコーチ人生を調べてみました。
大坂なおみさんの父親の職業について調べてみると、なんと、ハイチで映画監督として活動していることが分かりました。
ハイチでは、ハリウッドならぬベリウッド(Bellywood)が映画産業の中心地のようで、大坂なおみさんの父親は2008年~2009年頃に3本の映画を作っていたようです。
その頃は、大坂なおみさんが中学校時代で、テニスに集中するためにフロリダに移り住んだ後で、なおみさんのコーチも兼ねていた時期になります。
こちらは作品の1つ「Hard Time」の予告編ですが、大坂なおみさんの父親は俳優ではなく映画監督なので、画面の中には出て来ません。
大坂なおみさんの父親は、国籍はアメリカですが、ハイチの出身です。
大坂なおみ選手の父親の名前はフルネームが、
レオナルド・マキシム・フランソワ(Leonard Maxime Francois)氏で、
中米のハイチ共和国南部の港町ジャクメル(Jackmel)で生まれました。
フランソワ氏のFacebookによると、
高校はアメリカ・シカゴのチルデン高校(Tilden High School)で、
この頃までにアメリカ国籍を取得したようですね。
そして、大学は、メディアではニューヨーク大学(NYU)と報じているところが多いですが、フランソワ氏のFacebookの学歴よると、ニューヨーク市立大学(CUNY)となっています。
ニューヨーク大学は私立の名門大学、ニューヨーク市立大学は、アメリカで最も歴史のある公立大学群の1つで、いずれにしてもフランソワさんは優秀な学生だったようですね。
そして、学生だった1990年頃、日本の札幌で、大坂なおみさんの母親となる大坂環さん(当時19歳)と出会い恋に落ちます。
父親のフランソワさんは1990年頃に学生だったということなので、その当時のフランソワさんの年齢は20~22歳であると考えられます。
とすると、生まれた年は1969年前後と思われ、現在の年齢は49歳あたり、ということになります。
話を環さんとフランソワさんに戻すと、
環さんは、2人の交際は、北海道最東端の根室に住む環さんの両親には秘密にしていました。
環さんが如何にフランソワさんのことを好きであっても、外国人、しかも黒人と付き合うことは、昔ながらの価値観を持つ環さんの両親には受け入れられるはずがないことを知っていたようです。
その事実が露呈したのが、環さんが20代前半になって、父親からお見合いを薦められるようになり、フランソワさんとの交際の事実を告げた時でした。
交際を認めてもらうことができなかった2人は1994年頃、駆け落ちのように北海道から大阪に移り住むこととなりました。
大阪に住居を構えたのは、仕事がみつかったからとも報じられています。
その時のフランソワさんの職業は、英会話塾の先生だったそうです。
ということは、父親のフランソワさんは、ある程度の日本語を話すことができていたようです。
そして、長女の大坂まりさんが1996年4月3日に生まれ、その18か月後の1997年10月16日に次女の大坂なおみさんが誕生します。
大坂なおみさんのテニス人生は大阪に住んでいる3歳の頃(2000年)から始まりました。
2000年の頃と言えば、女子テニスでは、アメリカのセリーナ・ウィリアムズとヴィーナス・ウィリアムズ姉妹がグランドスラムでの姉妹対決で沸いている時期でした。
大坂なおみさんの父親のフランソワさんは、ウィリアムズ姉妹の父親のリチャード・ウィリアムズ氏がテニスを全くしたことがなかったにも関わらず、姉妹のコーチとなり、グランドスラムで活躍する選手に育て上げたことを見て、自身もテニスはちょっとしかやったことがないものの、同じようにすれば、まり・なおみ姉妹も一流の選手となるのではと思ったのだそうです。
当時、母親の環さんが働いていたオフィスのすぐ近くに関西テニスの中心地である靭(うつぼ)テニスセンターで、大坂なおみさん姉妹は父親からテニスの練習を受けるようになりました。
先述のようにフランソワさんには本格的なテニス経験はなかったので、元シングル男子・世界ランク1位のアガシやサンプラスの本やビデオを買って独学でなおみさんに指導していました。
そして、近くにテニスのできるコートがない時は、
家の中のふすまを外し、部屋と部屋の間に立ててネット代わりとして、家の中で娘たちとテニスをしていたそうです。
そして間もなく、大坂一家はアメリカへの移住を決断します。
大坂家族がアメリカに移住したのは2001年のことで、
父親の仕事や子育ての環境を考慮しての決断だったとのこと。
幼少期のなおみさんは、
父親が学生時代を過ごしたニューヨーク州ロングアイランドのエルモントで6年を過ごし、
私立のアルデン・テラス小学校に通いながら、
全米オープンの会場でもあるナショナル・テニス・センターなどで、姉のまりさんと、毎日6時間近く練習する日々を送っていました。
この頃のなおみさんは、父親や母親、そして、姉のまりさんにテニスでいつも負けていて、
「テニスは楽しくなかった」
のだそう。
なおみさんが小学校を卒業後の2006年、
家族は、よりテニスに集中できる環境を求め、アメリカのテニスの聖地、フロリダ州に移り住みます。
住まいは、近郊に名門のテニス・アカデミーのあるフロリダ州ボカ・ラトンで、
なおみさんは、中学校と高校は、公立のブロワード・バーチャル・スクールを卒業しています。
この学校は、バーチャル=オンラインで授業を受けることができるシステムで、
なおみさん姉妹は、日中は公営のテニスコートで練習を重ね、夜に勉強をする毎日だったそうです。
なおみさんは学業も優秀で、2年飛び級で高校を卒業することが出来たそうです。
そして、大坂なおみさんは2013年の15歳の時にプロに転向します。
その1年前の14歳の時には、
「人生で一番うれしい勝利」
である姉から初めてテニスで勝つことができたのだそう。
2013年当時の大坂なおみさんのランキングは1022位。
小さな大会で2度準優勝をしますが、スポンサー契約は0で、
移動のための飛行機やホテル、遠征先の食事代は両親が支えてくれていました。
当時の大坂なおみさんは、携帯電話も持っていなかったそうで、
欲しいものとして「携帯電話」と告げたなおみさんに母親の環さんは、
「優勝して、賞金で買いなさい」と言い返したのでした。
そんな大坂なおみさんを一躍有名にしたのが、
2014年に出場したアメリカの大会(WTA)でした。
ランキングと経験を考えれば勝てるはずの無い相手にフルセットで勝利し、
その時のサーブのスピードが時速193キロを記録し、
「大番狂わせ」と、「セリーナ・ウィリアムズに匹敵するパワー」を保持していることを世に知らしめたのでした。
そんな大坂なおみさんがそれまでにどんな練習をしてきたかというと、
ずっと父親のフランソワさんがコーチで、
父親の考えから、ジュニアの大会には出場せず、
常に目上の選手と戦うことで実力をつけてきたのでした。
同年、フロリダのプロワールドテニスアカデミーに招かれて、
初めて専門的なトレーニングを始めることになりました。
その後の快進撃はテレビで報じられている通りです。
大坂なおみさんの父親のフランソワさんは、若い頃はバスケやアメフトの選手だったそうで、母親の環さんも、北海道出身で、スピードスケートの選手だったそうで、
元々、スポーツに親しみのある両親のもとで、自然にテニスに打ち込む環境が出来ていたようですね。
でも、父親のフランソワさんが、テニスを娘たちに薦めなければ、
もっと言えば、テニスを教え始めたものの、
素人だったため、途中であきらめてしまっていたら、
今の大坂なおみさんはいなかったかもしれません。
親から過剰に期待されるのも問題となるケースもありますが、
大坂なおみさんに関しては、父親、母親の苦労と期待に応え、今の姿があるのでしょう。
なおみさんの父親は生まれ故郷のハイチで、映画監督もするなど、
好きなことをやっている印象があります。
なおみさんの天然キャラは、父親譲りなのかもしれないですね。
]]>大坂なおみ選手は試合後、母親の環さんのもとへ駆けつけ涙のハグを交わしました。
日本では、環さんの実家で北海道根室市に住む祖父の大坂鉄夫さんが笑顔で取材に答えていました。
とても感動のシーンでしたが、なおみさんが生まれる前、母親の環さんは父親のレオナルド・フランソワさんとの交際を根室の祖父母に認めてもらうことが出来ず、大阪へ移り住んで結婚し、なおみさんと姉のまりさんを生んだのでした。
実家の祖父母とは結婚後10年に渡って話しをすることもない断絶状態だったといいます。
大坂なおみ選手と母親の強い絆を写真画像などとともに見ていきたいと思います。
The power of love…
❤ @Naomi_Osaka_ #USOpen pic.twitter.com/1iRhKjBWXb
— US Open Tennis (@usopen) 2018年9月8日
「愛の力…(The power of love)」
全米オープンで優勝を決めた後、駆けつけたスタンドでの大坂なおみ選手と母親の環さんの感動の瞬間の動画を、大会公式ツイッターはこのコメントを添えて公開ツイートしました。
もう少し長い動画がこちらになります。
❤️❤️❤️❤️@Naomi_Osaka_ soaks in the love…https://t.co/VtxXIM1nti#USOpen pic.twitter.com/539G2daAsu
— US Open Tennis (@usopen) 2018年9月8日
大坂なおみ選手の大成長の理由と言われる昨年末から一緒に練習を始めたサーシャ・ベージンコーチ(33歳)と喜びを分かち合った後、ベージンコーチが、母親の環さんを誘導して、2人の感動のシーンとなります。
優勝セレモニーのインタビューで、この時の母親とのシーンについて尋ねられた大坂なおみ選手は、
「お母さんは私のためにたくさんのことを犠牲にしてきてくれて..それに、私の試合を観戦することは母にとっては大きな事なんです。だって普段の試合だったら来てくれないから。」
と冗談も交えつつも母への感謝の意を表していました。
Played escape room with the family ❤️ pic.twitter.com/q3jc87lwWW
— NaomiOsaka大坂なおみ (@Naomi_Osaka_) 2018年2月4日
大坂なおみ選手は、1997年10月16日、大阪で誕生しました。
母親は日本人の大坂環さん(47歳)、父親はハイチ出身でアメリカ国籍のレオナルド・フランソワさんです。
環さんの父親は、現在、根室漁協の組合長の大坂鉄夫氏(73歳)です。
母親の環さんは、北海道の最東端の根室市で生まれ育ちましたが、彼女の母親が高校は北海道の首都である札幌市の学校に送り出してくれたのでした。
環さんは父親のフランソワさんと1990年頃、札幌で出会います。
父親のフランソワさんはアメリカ・ニューヨークから来たハンサムな大学生で、環さんは19歳でした。
2人はデートをするようになりますが、環さんの両親には数年間、秘密にしていました。
その理由は、フランソワさんはハイチ出身の黒人で、その頃、北海道に黒人はわずかしかおらず、両親に理解してもらえないと踏んでいたからでした。
環さんが20代前半になると、フランソワさんという恋人がいることを知らない父親の鉄夫さんは、しきりにお見合いを薦めてきたのだそうです。
そこで遂に環さんは、フランソワさんと付き合っていることを告白しますが、案の定、フランソワさんが外国人、それも黒人であることを知った父親の鉄夫さんは、大坂家の名前に泥を塗るのか、と激高し、環さんを罵ったと言います。
そこで、環さんとフランソワさんは北海道を離れ、仕事を見つけることができた大阪に移り住んだのでした。そして、長女のまりさんと、次女のなおみさんの2人の娘を授かったのでした。
大坂なおみ選手が大阪生まれなのは、そんな背景があったからでした。
その後、大坂なおみさんが3歳の時(2000年)に、家族はアメリカに移住を決断します。
父親のフランソワさんの仕事の関係と、2人の娘が始めていたテニスの環境を考えてのことでした。
その後、2006年にはテニスに集中できる環境を求め、アメリカのテニスの聖地であるフロリダに家族は引っ越します。
フロリダでは、娘のまりさんとなおみさんは日中は市営のコートでテニスの練習をして、夜に自宅で学習をするという体制を取っていました。
中学・高校はオンラインで学習のできる学校で学んでいました。
環さんとフランソワさんの結婚を認めなかった根室の実家とは、その間、10年以上に渡って、ほぼ連絡が取れない状態だったそうです。
大坂なおみさんが11歳の時、
母親の環さんは、15年ほど疎遠となっていた日本の祖父母に孫のまりさんとなおみさんを会わせようと、実家の根室の家を訪ねました。
久々の帰郷は、環さんの期待通りにはいきませんでした。
根室の祖父母は、2人の孫に興味を示したものの、自宅学習とテニスの練習をしていることに対して、テニスはお遊びだよ、仕事にはできないよ、と嘲笑ったのでした。
Semis ❤️ pic.twitter.com/o5JEkNT5pX
— NaomiOsaka大坂なおみ (@Naomi_Osaka_) 2018年9月5日
環さんが意を決して、娘たちを根室の実家の祖父母に会わせてから約9年後の現在、
次女の大坂なおみさんは全米オープンで優勝し、380万ドル(約4億1800万円)の賞金を獲得しました。
「テニスはお遊びで仕事ではない」
そんな祖父母から受けた嘲笑を、大坂なおみさんは実力で認めさせることに成功したのでした。
孫娘の快挙に、日本のメディアからの取材に応じた祖父の大坂鉄夫さんは、なおみさんへの祝福の意を表しました。
実際には、祖父の鉄夫さんは、3、4年前に、東京を訪れた孫娘のなおみさんに、
「有名な選手はみんなピアスをしているから、じいさんが買ってやる」
といって、ピアスをプレゼントしてあげたそうです。
大坂なおみさんのピアスというとネックレスとお揃いのパール(真珠)ですよね。
パール(真珠)は日本の象徴とのことで、パールが汗に弱いのを承知で付けているそうですが、どうやらおじいさんからのプレゼントのようです。
そして、日本人選手として日本テニス協会に登録している大坂なおみさんの現在の居住地は、祖父の鉄夫さんの別宅のある札幌の住所になっているとのこと。
大坂なおみさんは、大阪生まれ、フロリダ育ち、フロリダ在住だけど札幌市民、ということのようです。
父親のフランソワさん、母親の環さんの苦労と期待に応え才能を開花させた大坂なおみさんが、断絶状態となっていた、環さんの根室の実家との関係修復に大いに貢献しているようです。
母親の環さんが全米オープンの会場で流した涙は、実に多くのことを物語っていたのではないでしょうか。
大坂なおみさん、環さん、おめでとうございます。
環さん、素晴らしい娘さんを育ててくれて、日本人の私たちに多くの感動を与えてくれてありがとうございます。
これからの大坂なおみさんの益々の活躍を期待しております。
前日に決勝進出を決めた後、ネットでは大坂なおみさんは日本語も話せないので、日本人じゃない、との声も上がっていましたが、優勝後、大会公式ツイッターは「The Pride of Japan!(日本の誇り!)」と称え、日本では号外が配られる祝福の嵐となっています。
現在、日本人としてプレーしている大坂なおみさんの国籍は、母親が日本人のハーフで、父親のアメリカ国籍も持つ二重国籍となっています。
でも、日本の国籍法は1つの国籍しか認めない単一国籍が原則です。
大坂なおみさんは、いつまでに国籍選択をしなければいけないのでしょうか。
また、父親がアメリカ人のハーフの大坂なおみさんの苗字はなんで大坂なのでしょうか?本名は別にあるのでしょうか?
ここでは、大坂なおみさんのご両親の国籍や名前、日本の国籍法について調べたことをご紹介しています。
Semis ❤️ pic.twitter.com/o5JEkNT5pX
— NaomiOsaka大坂なおみ (@Naomi_Osaka_) 2018年9月5日
大坂なおみさんの生年月日は1997年10月16日なので、まだ20歳なんですね。
大坂なおみさんの父親はハイチ生まれのアメリカ人で名前はレオナルド・マキシム・フランソワ(Leonard Maxime Francois)さん、母親は根室市出身の日本人の大坂環(たまき)さんです。
大坂なおみさんには1歳年上の姉の大坂まりさん(1996年4月3日生まれ)がいて、家族は4人になります。
大坂なおみさんの武器と言えば、得意のサーブで、180㎝の高身長から繰り出されるサーブのスピードは、2016年の全米オープンで公式に時速201.1㎞と200km超えを記録しています。
父親のレオナルドさんが身長190㎝、体重100㎏の大柄な体格で、若い頃、バスケやアメフトの選手だったとのことで、なおみさんの恵まれた体格は父親譲りのようですね。
母親の環さんも実家が北海道根室市で、若い頃はスピードスケートの選手だそうで、両親ともにアスリートで、スポーツに理解のある両親の下で育ちました。
Played escape room with the family ❤️ pic.twitter.com/q3jc87lwWW
— NaomiOsaka大坂なおみ (@Naomi_Osaka_) 2018年2月4日
そんな、大坂なおみさんが生まれたのは、苗字と同じ日本の大阪(大阪市中央区)でした。
父親のレオナルドさんと母親の環さんが出会ったのは札幌だったのですが、根室の実家に住む環さんのご両親に関係を認めてもらえず、大阪に移り住んだ地でなおみさんは生まれました。
レオナルドさんと環さんは、娘のまりさんとなおみさんには、母親の苗字である「大坂」を名乗らせることを決めました。
日本で生活していくには、日本人の苗字のほうが、学校の手続きの時や、アパートを借りる時など、何かと都合が良いことを考えてのことでした。
なので、大坂なおみさんの本名は、「大坂なおみ」です。
アメリカや父親の出生地であるハイチの媒体でも、大坂なおみさんのことは「Naomi Osaka」と呼んでいます。
Osaka出身のOsakaさん、ということで、大坂なおみさんは海外メディアからも名前について聞かれることが多いそうなのですが、「大阪に生まれると、苗字はみんな「おおさか」になるのよ」と、インタビューにジョークで答えていたことがありました。
— NaomiOsaka大坂なおみ (@Naomi_Osaka_) 2018年3月19日
1997年10月16日、日本人の母親と、アメリカ人の父親との間に、日本で出生した大坂なおみさんの国籍はどうなっているのでしょうか。
大坂なおみさんは、日本の国籍法で国の選択をしなければならない重国籍となる人に当てはまります。
20歳現在、日本とアメリカの二重国籍ですね。
そして、国籍の選択については、
と国籍を選択する必要が定められています。
それでは、大坂なおみさんは、いつまでに国籍の選択をしなければいけないのでしょうか。
1997年(平成9年)10月16日生まれの大坂なおみさんは、国籍法の国籍の選択すべき期限について、こちらに当てはまります。
大坂なおみさんは、昭和60年1月1以後に重国籍となった日本国民で、アの20歳に達する以前の出生時に重国籍となっているので、国籍選択の期限は、22歳に達するまでになります。
大坂なおみさんは今年の10月16日で21歳の誕生日を迎えますので、22歳に達する期限は、来年の2019年10月16日となります。
大坂なおみさんは、これまでは日本とアメリカの二重国籍のままでしたが、どちらかの国籍選択を迫られる期限が迫ってきています。
現在、大坂なおみさんは二重国籍をキープしながら、国別の代表に選ばれる選手登録を日本で行っていることから日本代表となっています。
2013年10月にプロに転向した大坂なおみさんは、
2014年7月下旬、世界ランキング406位で挑んだ試合で、世界ランキング19位で2011年の全米オープン優勝者のストーサーに逆転勝ちして、一躍注目を集めました。
ストーサー戦の勝利後、世界ランキングが406位から272位に上がった大坂なおみさんに目を付けた日本オリンピック委員会は、なおみさんが日本テニス協会に登録していないものの、強化指定選手に認定して知らせたのだそうです。
その後も急成長を続ける大坂なおみさんに対して、2016年にはどちらの国の代表となるのか、日米争奪戦が繰り広げられたとのこと。
アメリカはトップ10の代表監督が直々に交渉するなどしたものの、大坂なおみさんのコーチである父親は日本テニス協会への登録を決めたのだそう。
2017年2月のフェド杯で、大坂なおみさんは日本代表デビューを飾り、それ以降、日本人としてプレーを続けています。
日本を選択したのは、無名の2013年頃からサポートしてくれた日本に恩義を感じた、とも、ランキングを上げたもののトップ100位以内に11人の選手がいるアメリカよりも、選手層が薄く代表に選ばれることが確実だった日本を選んだ、とも言われています。
また、日本人であれば、アメリカより高い金額を払う日本の企業がスポンサーとなってくれることが錦織圭選手の例でわかっているので、スポンサー契約狙い、という言う声もあります。
現に、大坂なおみさんは日本代表となった2016年11月に錦織圭選手の所属契約先でもある日清食品グループと所属契約を結んでいます。
現在、大坂なおみさんは、日清食品グループの他、アディダス(ウエアとシューズ)、ヨネックス(ラケットなど用具契約)、WOWOW、最近では時計のシチズンとスポンサー契約をしたばかりです。
今回、全米オープンの優勝で、女子テニス世界ランキングトップ10入りを果たす大坂なおみさんは、今後、国籍選択でも日本を選ぶのでしょうか。
現在はアメリカ代表に選ばれる成績を収めていますが、これまでの日本への恩義やスポンサー契約を考えると、日本を選ぶ可能性が高いです。
今後も日本人として活躍して、日本に夢と勇気を与えてくれることを望みたいですが、
ちょっと心配なのは、今回のなおみさんの快挙に対して、
ネットでは、
日本語すら話せないし、外見も日本人と思えない、
日本選手がんばれ、って感じじゃない、
などの意見があったことです。
井戸端会議で、大阪なおみさんが日本人であるこを認められるか許されるか、
なんて話しで盛り上がっているおばさんたちもいたという・・・
今や日本のあかちゃんの30人に1人は外国人の親を持つハーフと言われています。
大坂なおみさんは、
テニスの教育環境を求めて3歳で日本を後にしていて日本語についてはおぼつかない部分もありますが、
大阪出身フロリダ育ちの日本人であることは確かなことです。
インタビューの時に見せるちょこんとした会釈や謙虚さの性格は日本人そのものと感じます。
見かけが日本人に見えない、の日本人って何なんでしょうね。日本が多様化を受け入れる時代はいつくるのでしょうか。
大坂なおみさんに選ばれる「日本」になって欲しいものです。
]]>デニス・テン選手は日本のフィギュアスケート選手と親交が深く、浅田真央さんとは10代からの付き合いで家族同然の仲でした。
デニス・テン選手の突然の訃報に、彼の功績や人柄を惜しむメッセージが世界のフィギュア仲間からツイッターやインスタグラムに多数寄せられています。
ここでは、事件の詳細や、浅田真央さんや高橋大輔さんとの関係、世界のフィギュア仲間からの寄せられたメッセージを紹介しながら、デニス・テン選手を偲びたいと思います。
カザフスタンの国営通信社「カズインフォルム」によると、デニス・テン選手は、19日の午後3時ごろ、生まれ故郷であるカザフスタンのアルマトイ市内の繁華街で、デニス選手の車のミラーを盗もうとしていた暴漢2人に襲われ、ナイフで右の太もも上部を刺されて大腿血管を損傷し大出血となり、意識不明で倒れているところを通りかかりの人が見つけ、午後3時26分、市内の病院に緊急搬送されました。
すぐさま手術となりましたが、出血は既に3リットルにも及び、同日午後6時、帰らぬ人となったことをカザフスタンの保健・社会開発省が認めたことが報じられました。
保健・社会開発省ではこの後、デニス・テン選手の死去について会見を開く予定とのことです。
この日、デニス・テン選手はレストランでランチをしていたことが、同席していたと思われる友人のインスタグラムのストーリーに紹介されていました。
テン君の数時間前の姿がこの方のストーリーに
デニス・テン君のご冥福をお祈りいたしますhttps://t.co/yuuwe0daVJ pic.twitter.com/0GgdHF2Vrr— Bambi (@Disneyofheart) 2018年7月19日
事件のあったアルマトイはデニス・テン選手の生まれた都市で、レストランでランチを終えた後、繁華街に停めてあった自分の車に戻った際、車のミラーを盗もうとしていた暴漢2人と鉢合わせとなり、ナイフで刺されたものと思われます。
デニス・テン選手は1993年6月13日生まれで、先月25歳の誕生日を迎えたばかりでした。
先月の誕生日前の6月9日には、カザフスタンの首都アスタナで、アルマトイからの遷都20周年を記念したアイスショー「デニス・テンとフレンズたち」が行われていました。
Figure Skating is more than just a sport.
Come and check out yourself.
June 9. Astana. Barys Arena. #denistenshow #denistenandfriends pic.twitter.com/WcrUwe7NJa
— Denis Ten (@Tenis_Den) 2018年5月17日
@Tenis_Den
Thanks for organizing the amazing show.
You have great friends and many fans😊#denisten #ДенисТен #denistenshow #denistenandfriends #denistenandfriends2018 pic.twitter.com/yPRM1VhIgR— dimple (@dimple_wx) 2018年6月12日
デニス・テン選手は日本のフィギュアスケート選手との親交が深く、その中でも浅田真央さんとは家族同然の関係と言われています。
デニス・テン選手と浅田真央さんは、10代の頃に共にロシアのタチアナ・タラソワコーチの元でトレーニングに励んだ仲で、家族ぐるみの付き合いでした。
2011年12月に浅田真央さんの母親の匡子さんが亡くなった時には、デニス・テン選手は誰よりも早くツイッターで哀悼の意のメッセージを寄せていました。
I remember Mrs. Asada watching our practices in Moscow like it was yesterday. She was a very nice lady!!! Please stay strong Mao and Mai!!!
— Denis Ten (@Tenis_Den) 2011年12月9日
「浅田ママがモスクワで僕たちの練習を見ていたことが昨日のようだよ。彼女はとてもステキな女性でした!!!舞と真央、どうか強くあれ!!!」
実母を亡くして失意の中にいた浅田真央さんは「スケートをやめたい」と思うほど落ち込んでいた時に、母のように慕っていたカナダの振付師のローリー・ニコルさんを訪れます。ローリーさん宅で普通の生活をすることで徐々に癒されていった真央さんを、そばで見守ってくれていたのがデニス・テン選手だったといいます。
デニス・テン選手の2012年のインスタグラムには、浅田真央さん舞さん姉妹とケーキを頬張るキュートな画像が投稿されていました。
そしてこちらが、2017年4月11日、浅田真央さんが現役引退を表明した際に寄せたインスタメッセージになります。
「真央、君の人生の真新しい章の始まりだね。幸運を心からお祈りしているよ。
僕たちがモスクワで練習を重ねていた時、君は僕を唯一の練習友達にしてくれたよね。夢にも思わなかったことだったよ。長い間忘れられないことになったよ。
ところで、君のスケートでの素晴らしい業績にもかかわらず、カザフスタンに来てもらって、そして、君にインスタグラムを始めるべきと説得したのが懐かしいよ。
今の君は何かを分かち合うことができるはずだよ。目いっぱい人生を楽しんで。そうすることに見合う人だと心から思っているよ。」
デニス・テン選手の訃報を受け、デニス・テン選手が始めるきっかけを作ってくれたというインスタグラムに、浅田真央さんが悲しみのメッセージを投稿しています。使われた写真は、浅田真央さんが引退を表明した際にデニス・テン選手が投稿したのと同じツーショットの画像でした。
高橋大輔さんは、2018年7月1日に4年ぶりの現役復帰を表明したばかりですが、2015年12月にデニス・テン選手がインスタグラムに投稿した動画では、高橋大輔選手の現役復帰を予言していたのでした。翌年、復帰するとのデニス・テン選手の予言に「No Way(ありえない)」と語る高橋大輔さんでしたが、本人もありえないと言っていた現役復帰が実現したのでした。
祖国カザフスタンにフィギュアスケートで史上初めてのメダルをもたらした国民的英雄にして、その優れた人格で日本だけでなく世界のフィギュア仲間から親しまれていたデニス・テン選手の突然の訃報に、世界のフィギュア仲間から悲しみのメッセージが寄せられています。その中のいくつかをまとめてみました。
先月カザフスタンでのデニスのアイスショー本当に素晴らしかった。デニスもすごく満足してて喜んで、またこのメンバーでしようね!って話してたのに…本当に本当に信じられへんし悲しいし悔しい。。心よりご冥福をお祈り致します。 pic.twitter.com/0Pyqqlfuo2
— 織田信成 nobunari oda (@nobutaro1001) 2018年7月19日
突然すぎる訃報に。。本当になんと言って良いかわからない。。悲しすぎる。。
デニスはジュニア時代から一緒に試合をしてましたし、シニアに上がってからもずっと声かけてくれたり。。本当に心優しい紳士でした。心から御冥福をお祈りします。。— 無良 崇人 (@takahito3211) 2018年7月19日
デニス…
やだやだ!信じられない!
嘘って言って…!!
お願いだから、大事な仲間を奪わないで!!!!!!!
デニス戻ってきて…っ! pic.twitter.com/JnuPKEs1Cf— Kanako.Murakami (@Canyanpy1107) 2018年7月19日
信じたくない。悲しい。悔しい。
デニス…ご冥福をお祈りいたします。— Akiko Suzuki (@Mariakko2010) 2018年7月19日
デニス…
言葉が思いつかない。まだ話したいこと沢山あるよ。3年前初めてのプリクラに興奮してまた撮ろうねって約束してたよね。こんなうちにも優しくしてくれて…
信じられない。。
まだデニスのスケートを観たかった…
デニスに出会えて本当に良かったありがとう#youwillliveinourheartforever pic.twitter.com/2L0cgMIkoI
— sana (@shanana37) 2018年7月19日
Heartbroken 😔 pic.twitter.com/xUB2gcMct3
— Carolina Kostner (@msKOSTNER) 2018年7月19日
「これはたった2年前のことのことです。デニスはフィギュアスケートの世界で並外れた才能と想像力に溢れた選手の1人でした。今回の出来事は信じられないし信じたくないです。デニスの近親者の方にお悔やみ申し上げます。彼の笑顔を忘れることはありません。」
「僕のスケートの友達、デニス・テンが今日、亡くなりました。彼は皆に優しくて、僕や多くの人に創造を掻き立ててくれました。カザフスタンの街中でころされてしまいました。デニス、どうやってチャンピオンになれるのかを見せてくれてありがとう。君と過ごした時間は短すぎるよ。君のことはこれからもずっと大好きだよ。」
「友達の君がいなくなってとても寂しいよ。何百もの言い方や言葉を探したけど、君がどんなに素敵な男かを表す形容詞が見つからないし、君を失った損失の深さを正確に説明する言葉も見つからないよ。RIPデニス、ご冥福をお祈りします。」
Completely devastated by the passing of Denis Ten. He was as bright and kind as he was talented. This is such an incredible loss and tragedy. My heart is with his family and loved ones. pic.twitter.com/pXGB2OdvYg
— Johnny Weir (@JohnnyGWeir) 2018年7月19日
I feel so honored and grateful to have shared the ice with @Tenis_Den. One of the most beautiful skaters to have graced our sport. My thoughts are with his family during this unimaginable time. I feel so lucky to have made memories with Denis that I will cherish forever…
— Patrick Chan (@Pchiddy) 2018年7月19日
「デニス・テン選手は素晴らしい選手であり、彼のスポーツの素晴らしい代表者でもありました。温かい性格とチャーミングさも持った選手でした。若くして彼を失ったことをとても悲しく思います。」IOC会長、トーマス・バッハ pic.twitter.com/0XimMTdu62
— オリンピック (@gorin) 2018年7月19日
ソチ銅メダリスト、デニス・テンくんを襲った悲劇に言葉を失っています。
カザフスタンを背負い、ユニークで人望も厚く、いつもベストを尽くしてくれたテンくん。
引退を決意した真央ちゃんに送った言葉も、同じイニシャル〝DT〟の高橋大輔の復活を喜んでいたことも…何とも無念で涙が止まりません。 pic.twitter.com/ls0HF6JALh— 実況さん (@jikkyo_san) 2018年7月19日
デニステンさんの訃報。盟友でもある真央ちゃんのショックを考えると言葉が見つかりません
心よりご冥福をお祈りします pic.twitter.com/ogokWQ6KZU— mnkaaa 真央ちゃんお疲れさま (@pomon555) 2018年7月19日
大好きな大好きな写真😢
お母さんが亡くなられてローリーのところにいた真央ちゃんのそばにテンくんも一緒にいて、きっときっと真央ちゃんや舞ちゃんの力になってくれたはず。本当に優しくて心の温かな人🍀
ご冥福をお祈りします#GoDenis#prayforDenis#デニステン pic.twitter.com/oViynMvwCp— ◡̈♡ (@lapislazuli817) 2018年7月19日
カザフのアイスショーに向かった真央ちゃんや高橋大輔も、「デニスに呼ばれたから」そしてそんな出演者を迎えるテンくんやカザフも国賓のような扱いをしてくれて…そんな人柄と真心を忘れない。
— Emma (@nlm0144) 2018年7月19日
]]>#デニステン
デニス・テン選手ご冥福をお祈りします
今までありがとうございました
そしてお疲れ様でした pic.twitter.com/BSTEcij4aj— ゆず (@Y1207S1217) 2018年7月19日